夏栗山砦(明智光秀の陣城)

 

 夏栗山砦縄張図(国土地理院の電子地形図25000)f:id:temeraire1839:20210302185930j:plain

 

丹波篠山市の北、黒頭峰と並んで目立つ 夏栗山(標高600m/比高南丹篠山市小坂約370m 北春日町東中約490m)の山頂に夏栗山城はあります。

丹波地区で城郭調査を行っておられた高橋成計氏が、地元での聞き取りから夏栗山砦の存在を確認されました。

急峻な山容の夏栗山ですが山頂部は、約200mにわたり平坦な地形で、そこに中央、西、東の郭が作られています。

中央の郭は、東西に土塁が見られ西側は食違い虎口になっています、北側は折れのある高さ約2mの切岸になっていますが、南側は西側の一部を除き切岸は明確でなく、展望台が作られているので破壊があったのかもしれません。

東西の郭は、南側は明確な切岸となっていますが北側は自然地形のままです。

西郭の先端は土塁があり、南側は5m程度張り出し虎口となっています。

東郭には2か所、虎口と思われるものがあります。

高橋氏によれば、夏栗山から金山城北の瓶割峠を経て譲葉山城(2013年11月30日ブログ)までの尾根通りのルートが確認でき、この事から夏栗山砦は黒井城(直接的には東の三尾山城)に対する陣城であったと思われます。

以前、城域は藪状態でしたが現在は、植林は間伐され下草は綺麗に刈り取られ非常に見やすい状態になっていました。

 

 中央郭写真

西虎口内側

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西虎口外側

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西土塁外北西外角

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2007年5月撮影

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 東土塁内側

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東土塁外北東角

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東土塁外南東角

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北東切岸

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西郭写真

西端土塁

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虎口南西より

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虎口北東より

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虎口外側

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南側切岸

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東郭写真

南切岸

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南西虎口

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遠望写真

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  • 参考文献

   戎光祥出版株式会社 2008年1月5日発行

    高橋成計氏著 図説 日本の城郭シリーズ6 織豊系陣城辞典

   戎光祥出版株式会社 2019年8月8日発行

    高橋成計氏著 図説 日本の城郭シリーズ13 明智光秀の城郭と合戦            

佐田城


佐田城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)
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2008年3月から13年ぶりに佐田城に行って来ました。

城域は以前と比べ低木が少なくなり歩きやすくなっていましたが、南側の空堀部に笹が茂り以前は空堀の底を伝ってかろうじて歩けましたが、現在はかなり困難になっています。

佐田集落の裏山(西側 標高201.2m/比高約90m)の山頂部を残し周囲を約3m程度切り落として削平地を作り、その南、西、北にかけて空堀が見られます。

東側は、現在切岸のみで空堀があったようには思えません。

北に続く尾根には、浅い堀切がありその北のピークまで城郭に関連するものは見られませんでした。(古墳が2基ありました)

北の空堀に面して明確な折れを伴う土塁があります。

佐田城の様な、郭の中央部にマウンド残す城は、伊勢を中心に宇陀などの奈良の南部に幾つか見られますが、何か関連するのでしょうか。

 

東虎口?写真

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中央マウンド写真

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 南部空堀写真

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北に続く尾根の堀切写真

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北部土塁折れ部写真

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北部空堀写真

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遠望写真

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  • 参考文献

  戎光祥出版株式会社 2016年3月1日発行

    城郭談話会編 図解 近畿の城郭Ⅲ 

  株式会社新人物往来社 昭和55年8月15日発行

    日本城郭大系 第10巻 三重・奈良・和歌山

 

刑部城

 

刑部城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

 

丹波守護代内藤氏の本城である八木城から桂川を隔てて北東約2.6kmの位置にある国土地理院の地形図で多国山(標高188m/比高90m)と表記のある山の山頂が刑部城です。

山の標高180mの等高線付近全周に切岸が見られますが、その内部はほぼ自然地形で削平を行ったのは南と北の一部のみと私は見ました。

それぞれ削平地の縁に土塁が見られますが、あまり明確なものではなく特に北の上段の削平地の土塁は痕跡程度です。

虎口についても、南の土塁の切れ目は後世の破壊、北の土塁の東端が開いていますが虎口と機能している様に思えません。

いびつな円形のマウンド状の山頂部は、平坦になっていますが特に櫓台というものでは無いと見えました。

近畿の城郭2では、天正3年の明智光秀によると記述がありますが、八木城に関連する戦いであれば天文22年の波多野氏による落城、その後の三好氏・松永久長頼の回復があり刑部城の遺構の現状を見る限り必ずしも明智氏によるもので無いように私は思います。

 

南土塁内側写真f:id:temeraire1839:20210214143449j:plain

 

南土塁外側写真

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北土塁内側写真

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北土塁外側写真

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北土塁中央部写真

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北土塁東端写真

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遠景写真

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  • 参考文献

    戎光祥出版株式会社 2015年4月1日発行

      城郭談話会編 図解 近畿の城郭2

    京都府教育委員会 平成25年3月29日発行

      京都府中世城館調査報告書 第2冊 丹波

    株式会社 新人物往来社 昭和55年9月10日印刷

      日本城郭大系 第11巻 京都・滋賀・福井

 

土山城

 

 土山城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

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 東海道北の山から南に向かって伸びた尾根の先端(標高297.6m比高約50m)に土山城は築かれています。

ピーク部の30m強の土塁囲みの主郭は、北西の急斜面の所を除き空堀で囲まれており、主郭から南と南西に延びる尾根にも郭が見られます。

主郭南の虎口の外は、土塁に囲まれた馬出郭とされる小郭がありますが、その虎口も南に開いているので主郭には南から真っ直ぐに入るようになっています、この様な形で本当に馬出郭の機能をはたすことが出来るのか私は疑問です。

同じく南端の現地では角馬出と表示される郭についても、尾根上中央部で土塁が開いているのは後世の改変でなければ同じことが言えるよう思います。

土山城は天正12年の小牧長久手の戦いの際の羽柴勢力により改修されたとされていますが詳細に考える必要があると私は思います。

最近、北東斜面が伐採されたので城域は明るくなりましたが、これから先夏の時期に藪化しないか心配です。

 

 

主郭写真

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主郭南の馬出郭北より写真

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主郭南の馬出郭南より写真

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主郭南の馬出郭西より写真

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現地の表示では角馬出とされる郭北より写真

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現地の表示では角馬出とされる郭南より写真

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  • 参考文献

   滋賀県甲賀市 平成22年12月1日発行

    甲賀市史 第7巻 甲賀の城

 

 

小早川高山城攻めの尼子本陣 大陣その2

 

 大陣縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

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 昨年、充分見れなかった大陣を再び見てきました。

結果、表邦男さんの縄張図から見るとやはり7割位が確認できる限界です。特に東側の2重の土塁線は、藪特に荊がきつく顔、手が傷だらけになりながら部分的に隙を狙って入りましたが、連続的につながりを確認できず残念でした。

今回、歩いてみると地元の方が立てたと思われる「陣ヶ嶺」「馬場」「鏡岩」「南虎口」等の看板が草木に埋もれているのを見たので、過去に地元の方が整備された様ですがその後放置され藪化が進行したようです。

表さんが調査されたのが、20年前なので状態が良かったのこも知れません。

 

 中央土塁張出部写真

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東端虎口写真

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 空堀西端写真

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  • 参考文献

   大陣を含め広島の城についてお教えいただいた表邦男さんの御本が出ます。

    株式会社 溪水社 2021年2月1日発行

     表 邦男氏著 広島の中世城館を歩く

立石城

 

 立石城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

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三田市の南東部、無くなってしまった道場城から武庫川を挟んで北東約1kmの塩田八幡宮のある低丘陵(標高約205m/比高約70m)の中央部に立石城はあります。

南北に尾根が続き東西には地形図では分かりにくい深い谷が入り込んだ、中央部の広くなったピーク部を城域としています。

城の遺構は、中央部を空堀で分断した二つの郭からなっており、それぞれの南端には土塁が見られます。

南郭の東側以外を空堀が囲んでおり、南の空堀の南には2本の竪堀で尾根を遮断していますが、北側も尾根が続いているのにもかかわらず浅い空堀の外には堀切等はみられません。

立石城は、三田攻めの際の織豊勢力の陣城とされる事がありますが、全体的に見た私の印象ではそのようなことは無いと思います。

 

南郭土塁写真

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南郭南空堀写真

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中央空堀写真

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北郭東空堀写真

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  • 参考文献

   三田市史編さん委員会編 平成12年12月15日刊

    三田市史 第三巻 古代・中世資料

 

亀ヶ城


 亀ヶ城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

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但東町大田集落の北の標高172m(比高約異90m)の丘陵が亀が城です。

北側に谷が入り込んでおり背後の山からは切り離された独立丘陵で、中央の鞍部を挟んで東西のピークにそれぞれに郭が作られています。

東のピークは南北約50mの削平の良い郭で北が一段高くなって、西の端から土塁が10m強伸びています、角の低くなっている所が虎口の様に見えます。

西のピークは不定形の郭で西端が櫓台の様に高くなって、北側は約5m低くなって郭があります。

この西郭の西に続く尾根は2重の堀切で遮断していますが、内側の堀切の北側は二本の竪土塁が下りて、南側は3本の竪堀となっています。さらに西側の斜面には4本の竪堀が並んでいます。

東西のピークの北から東側にかけて、約20メートルの切岸となって下は広い削平地となって東から入ってくる谷に面しています。この削平地が城に関係するかよく分かりませんが、歩いてみて後世の耕作に関わるようなものは見えません。

東郭から南東方向に下る尾根の先端にも全長約50mの削平地があるが、耕作地では無い気がするが、城の遺構か私には判断つかない。ただその西側の谷部は、耕作地及び住宅跡と思われます。

 

東郭写真

北側

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南から

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櫓台?

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虎口受け郭

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西郭写真

北側切岸

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北下段郭

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虎口受郭

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竪堀列(畝堀)写真

南より

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北より

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竪堀写真

北側

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南側

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北削平地写真

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遠景写真

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  •  参考文献

    山名氏城跡保存会  2013年3月31日発行

     豊岡市の城郭集成2 日高市・出石市・但東町

    戎光祥出版株式会社  2015年4月1日発行

     城郭談話会編 図解 近畿の城郭Ⅱ