波賀城のシシ垣

  • 名称 波賀城のシシ垣
  • 所在地 兵庫県宍粟市波賀町今市

 

昨日参加した「兵庫歴史文化フォーラム 宍粟の山とたたら製鉄」で開演前におられた関係者の方に、以前ネットで見た宍粟地区のシシ垣について質問してみた。

回答は、数か所あるが確実に言える場所は波賀城にあり、自動車で登れる道の近くにあり見やすいのと勧められた。

場所は波賀城のある城山でなく谷をはさんで東の標高769.6mの山の西斜面で、高さ0.5m前後で耕作地と思われる緩斜面を囲んでいるように見えた。

ただ中には沢をふさいでいる様な所もあり、講演の中で話があったこの場所は地質が砂鉄を出す花崗閃緑岩であり製鉄に関連するものもあるのか?

講演の内容は知らなかった事ばかりで、砂鉄を採掘するだけでなく製鉄用の大量な炭が必要で山奥まで伐採、開墾を行っているようであった。

赤色図を見て削平地等を見つけても場所の歴史的な背景を調べなければ城郭遺構とするには注意が必要と思う。

 

 

丁野城

  • 城名 丁野城
  • 所在地 滋賀県長浜市小谷丁野町

 

丁野城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

 

小谷城の西約2.5kmで、北側が県道278号線、南の山脇に続く尾根は北陸自動車道で分断されている低丘陵(”岡山“ 標高168.9m/比高約70m)が丁野城(ようの)

現在東西に長く続く丘陵の東端の頂上を削平し郭とし周辺を空堀が囲む、空堀北の小さい平坦部は郭か?その北に堀切がある。

空堀の南は自然地形のようで郭のように思えない、南端に堀切。

若いころ初めて登った丁野城は藪山だったが、現在は整備され登りやすい。

 

主郭写真

 

空堀写真

北部

北西部

西側

 

南堀切写真

 

遠望写真

 

  • 参考文献

   滋賀県教育委員会 近江城友の会 平成2年3月 発行

    滋賀県中世城郭分布調査7 (伊香郡・東浅井郡の城) 

   戎光祥出版株式会社 2016年3月1日 発行

    城郭談話会編 図解 近畿の城郭Ⅲ 

上土田岩屋寺上陣城及び下足守七鼻の陣城 冠山城攻めの陣城

  • 城名 上土田岩屋寺上陣城
  • 所在地 岡山県岡山市北区上土田

上土田岩屋寺上陣城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

 

  • 城名 下足守七鼻の陣城
  • 所在地 岡山県岡山市北区下足守 

下足守七曲の陣城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

城名は石垣苔郎氏に従います。

 

赤囲み 三上山西砦(西)東砦(東)

青丸 下足守A及(西)B砦(東)上土田大崎境の陣城(南)

橙丸 上土田岩屋寺上陣城(南)下足守七鼻の陣城(北)

 

Xで石垣苔郎氏が紹介された、上土田岩屋寺上陣城、下足守七曲の陣城、CS図で存在を確認されたようで、20年以上前に倉敷のH氏の案内で下足守A、B砦を訪れて以来三上山周辺の尾根は丹念に歩いたつもりだったが、麓の七曲周辺は全くノーマークで石垣苔郎氏のXを見て非常に驚いた。

周辺の状況は変わりつつありB砦北の土取り場は広がりつつあり尾根は消滅(古墳はあったが砦はなかったと記憶)、AB間の尾根は切り取られて道になり、年々藪化が進む。

上土田岩屋寺上陣城は上土田の岩屋寺北東約350mの尾根のピーク(標高約65m/比高約50m)、全長約20m三角形の単郭で全周に土塁が見らる、東端の土塁が厚くなり虎口が開く、南西、北西の土塁が切れているのは後世の改変か?東の虎口の外は古墳と思われる。

下足守七鼻の陣城は七曲集落の約250m東の尾根のピーク(標高73m/比高約60m)、約15mの方形の単郭で全周に土塁、東と西の土塁切れ間があるが東は虎口だが西は後世の改変?東から西の切岸が高いのが印象の残った。

今回の二つ陣城により三上山西砦を中心とする、冠山城、すくも山城に対する宇喜多氏、織田氏が尾根上に陣城を配置した包囲網が明確になったように思う。

 

上土田岩屋寺上陣城写真

西土塁

東虎口

北土塁

 

下足守七鼻の陣城写真

西土塁

東土塁

 

  • 参考文献

  岡山県教育委員会 令和2年2月28日 発行

   岡山県中世城館調査報告書 第2冊 備中編

  全国Q地図 地図ページ

井元城 織田勢の陣城?

  • 城名 井元城
  • 所在 滋賀県東近江市妹町

 

井元城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

 

国道307号線と県道421号線の妹交差点の北西にある春日神社の背後河岸段丘上(標高約163m/比高約15m)が井元城。

愛知川右岸の河岸段丘上に西から、上岸本城、鯰江城、井元城、青山城、小倉城と存在している、上岸本城及び鯰江城は現在遺構はほぼ確認できないが、井元城、青山城、小倉城は段丘の崖を利用し郭を作り土塁、空堀が囲む、青山城は郭(主郭?)のみだが小倉城は土塁囲みの郭(主郭?)の東に低土塁で区画された郭が残る。

井元城は土塁囲みの郭(主郭?)の北東角の虎口の外に、土塁、空堀で馬出状の郭、さらにその北に小さい同じような馬出状の郭を重ねている。井元城はこのよう特徴的な重ね馬出郭により鯰江城に対する織田方の陣城とされるが、公開されている鯰江城(城郭体系)の図面見る限り他の三城も私には同じようなプランの縄張に見える、天正元年時点で織田氏勢力がこのような陣城の例があるのだろうか、多賀町の勝楽寺の対岸の籠城山城(2024年11月24日ブログ)が低土塁囲みの城だが攻城戦の話は伝わらない、さらに東の和南城、園城はとても織田勢力の城ではないと思う。同じ天正元年での小谷城周辺(中島城は在地系?)でも見られない、天正6年の三木城攻めで初めて出現するように私は思う。

確実な伝承、文献資料及び発掘調査がない現在安易に井元城を織田勢力(改変の可能性はあるが)の陣城とすることに私には疑問が残る。

 

主郭写真

 

馬出写真

 

遠望写真

 

  • 参考文献

   戎光祥出版株式会社 2014年8月8日 発行

    城郭談話会編 図解 近畿の城郭Ⅰ

 

 

中央構造線露頭2

  • 名称 中央構造線露頭
  • 所在地 三重県多気郡多気町周辺

今日は、雨の降る可能性もありずぼらをして山城に登らず、中央構造線の露頭へ。

最初は、勢和多気インターチェンジ近く、何の工事の跡かしれないが三波川変成帯の岩石と思われるものが見られる。

2カ所目は五桂湖近くの土取り場、松坂の月出の露頭の様な国道から細い山道を30分以上かかる所ではなく、しかも折角整備した遊歩道も崩れ見ずらくなっているが、ここは県道からも見える場所で大きな露頭が見える。多紀町は指定、保存は考えていないのだろうか?

3カ所目は少し離れた外宮近くの宮川の中に見える領家変成帯の露頭。ここから中央構造線は外宮、市役所の下を経て二見ヶ浦に続いている。

 

勢和多気IC付近写真

 

五桂池付近写真

 

 

伊勢市辻久留の宮川内の露頭

場所は多気ではないが

 

淡河城西付城

  • 城名 淡河城西付城
  • 所在地 兵庫県神戸市北区淡河町勝雄

 

淡河城西付城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

 

三木城の戦いで東約10km淡河城、出典は軍記物だが羽柴長秀(秀長)が城外で戦い城主の淡河弾正が勝利したとされる。

羽柴勢(織田)は数か所の付城を築き淡河城を包囲したようだが、現在遺構を確認できるのは今回の西付城だけと思う。久しぶりに訪れたところ下草が刈られ未透視がよくなり歩きやすい、若しかすると大河ドラマの関係で整備かと思ったがそうでもないようだ。

西付城は淡河城と同じ段丘上に位置(南約500m 標高約180m/比高約50m)し南北に谷が入り込んだところを、土塁、空堀で三つの郭を作つている、西端は土塁と外側に堀切で尾根を遮断、土塁中央付近が切れて虎口。中央の郭は西に土塁、東に土塁、空堀いずれもあまり明確ではない、さらに東に痕跡程度の空堀が見られ、城域南端全域に低土塁が残る。東は現在道路と耕作地で遺構があったか不明だが淡河城とは高低差のない立地なので何か防備があったかも?

23日開催の「三木夏の陣 籠城×攻城戦」での講演で、淡河城、西付城、加古川の野村城などについて触れられていなかったのは時間の制約もあったのか少し物足りない感が。

 

西端の堀切写真

 

中央郭東側の空堀写真

 

南端の土塁写真

 

東端の空堀写真

 

遠望写真

北より

南より

 

  • 参考文献

   戎光祥出版株式会社 2015年4月1日 発行

    城郭談話会編 図解 近畿の城郭Ⅱ 

 

祢津城

  • 城名 祢津城
  • 所在地 長野県東御市祢津

 

祢津下城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

 

祢津上城概念図(国土地理院の電子地形図25000)

 

約40年前初めて信州真田に行った時以来気になっていた祢津城に行ってきた。東(小諸方面)から真田に向かうと北国街道にしろ祢津道(街道)は祢津城の麓を通ることになり真田にとっては関門の様な感じがした。

烏帽子岳から南に下る台地状の尾根先端(標高約820m/比高140m)に下城、北東約900mの周辺より約70m高い尾根ピーク(標高930m/比高250m)が上城。

不思議な所は、城郭大系には興味深い下城の縄張図は掲載されず、上城が楕円形の縄張として特筆されているように感じた。

下城は、尾根北の細くなった基部に郭5、最初見たところは周辺に耕作地があるので溜池と思ったが水が溜まった様子はなく、西側は尾根を掘りこみ東側は土塁を積んでいるようでやはり郭か。周辺には竪堀が多数あり特に東の竪堀3本は合流して二重竪堀となり南東の林道が通過するところまで約150m続いていた。

南に郭が4カ所続き郭1が主郭か土塁に囲まれ削平も良い、南端中央部に登山道が入るところに虎口と表示があるが疑問。郭2と3の間は規模の大きい堀切で分断している。

上城は、大系の楕円形でなく東西に長い形で、概ね2段と見えるが上段切岸は藪もあり不明確、下段の切岸は明確だが上端に土塁があるとされるが痕跡程度、南に折れ部があり現地説明板には虎口とあるがではないと思う。下段の裾には広い腰郭が囲む。

上城、下城について従来本城、支城との関係とされていたが、縄張、位置関係を見ると三島正之氏が「第一次上田合戦」で触れられている、上城は下城に対する向城(陣城)とされていることに私も首肯する。

40年ぶりの真田郷はすっかり観光開発が進み、以前の山村風景とは様変わりには感慨深い。

 

祢津下城写真

A竪堀北端

5郭

B堀切

4郭切岸

4郭東腰郭

3郭切岸

4郭西竪堀

3郭切岸石積

1郭

C堀切

C堀切東竪堀

A竪堀を林道が通る地点

遠望

 

  祢津上城写真

 遠望



参考文献

   株式会社 学研プラス 2016年3月5日 発売 

    歴史群像 2016年4月号 №136号

    三島正之氏 第一次上田合戦

   株式会社 新人物往来社 昭和55年10月15日 発行

    日本城郭大系 第8巻 長野・山梨