中道子山城

 

 

中道子山城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

f:id:temeraire1839:20201206205909j:plain

 

加古川市北部、国土地理院の地形図で城山の表記の有る山の(標高271.2m/比高約250m)山頂部が中道子山城です。

第8回全国城郭研究者セミナー(19991年)においてパネル掲示で、国史跡指定をめざして行った調査報告(発掘)があったが、その後進展がないまま電波塔の建設計画がある様なので再度登ってきた。

30年前と比べ城域は公園化され主郭にはトイレまで建設され歩きやすくなっていました。(安易な公園化と遺跡破壊は同義語で、なおかつ公園化後放置は)以前よりあった主郭より西に続く郭内の霊場巡りの施設は荒廃状態ながら現存し、これらの建設で城の遺構がどの程度残っているのか不明。

西尾根の先端の郭は、比較的後世の改変が無いようで、その北東部に現地の標識では「搦手門」とある虎口が見やすくなっていました。

先端の郭の西には2本の堀切があり、内側の堀切は郭面から約5m落ち込んだ普通の形ですが、外側のものは岩盤を掘り込んで東側の面はとても下りれるようなものではありません。この堀切は尾根稜線部で堀状(道かも)のものが分岐しており北に下がった所で合流して、付近には採掘跡の様な穴があり、更に西に進むと巨大な窪地がありその北は堀切状となっていますが、どちらも正体不明です。

主郭の西の米蔵は、セミナーでの報告では内面全域が石積が発掘で出ていたいたようでしたが現在は埋め戻されたのか現在は見ることが出来ませんでした。

 

主郭東側土塁写真

f:id:temeraire1839:20201207003657j:plain

 

米蔵東より写真

f:id:temeraire1839:20201207003713j:plain

 

米蔵北より写真

f:id:temeraire1839:20201207003734j:plain

 

米蔵の虎口写真

f:id:temeraire1839:20201207003800j:plain

 

内側堀切

f:id:temeraire1839:20201207003820j:plain

 

外側堀切写真

f:id:temeraire1839:20201207003906j:plain

 

外側堀切分岐部写真

f:id:temeraire1839:20201207003836j:plain

 

搦手門写真

f:id:temeraire1839:20201207003926j:plain

f:id:temeraire1839:20201207003945j:plain

 

虎口写真f:id:temeraire1839:20201207004010j:plain

 

遠景写真

f:id:temeraire1839:20201207004029j:plain

 

  • 参考文献

   加古川市教育委員会 平成29年12月28日

    中道子山城跡発掘調査報告書2

伊勢畑城

 

 伊勢畑城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

f:id:temeraire1839:20201125012553j:plain

 

昨年10月充分見れなかった伊勢畑城に再び行ってきました。

今回は、前回見ていなかった南の郭を中心に歩きましたが、前回5時間+今回5時間かけてもまだ見逃している箇所がある様で再度行く必要があると考えています。

注目の箇所は、南端の南西角の約10×10mの張出で、明らかにその南の尾根を遮断している堀切に対して横矢を掛ける様に作れられている様に思います。

虎口について、土塁が切れている所が数か所見られますが大半は後世のものの様で、明確なのは西山頂部の南西角と西郭の西中央、谷部のもので、西山頂中央郭の南東角と中央土塁囲郭のは虎口のやや疑問があります。

伊勢畑城の山は、西の斜面は岩盤が露出する急斜面で登ることが不可能の様な気がします。北と南に尾根が続き、東斜面も登ることが出来るようで、この方面は空堀、土塁で守りを固めいます。北の尾根には現在作業道が切岸を破壊して入っていますが、この切岸は高さが10メートル近くあります。南の尾根には道がある様で、この道は谷から場内に入るのではないかと思います。

伊勢畑城が何故この様な場所にあるのか私にはよく分かりません。西1kmの下風城(2014年3月13日ブログ)は明らかに縄張に共通する物があり、北西5kmの高城では宇喜多と毛利の戦いがあり、また伊勢畑城の北の籾で注目すべきは、永禄9年に三村家親が狙撃され死んでいます、ただ三村氏と宇喜多氏はこの時期(永禄8年)に美作の三星城で戦っています、何故三村家親が籾まで出てきたのでしょうか。

 

西山頂部写真

中央郭南土塁

f:id:temeraire1839:20201126205808j:plain

中央郭南切岸

f:id:temeraire1839:20201126205714j:plain

南東角虎口?

f:id:temeraire1839:20201126205739j:plain

南郭

f:id:temeraire1839:20201126205646j:plain

西郭

f:id:temeraire1839:20201126205616j:plain

西郭虎口

f:id:temeraire1839:20201126205553j:plain

南端切岸

f:id:temeraire1839:20201126225330j:plain

 

中央部土塁囲郭写真

西より

 

f:id:temeraire1839:20201126212804j:plain

北より

f:id:temeraire1839:20201126205526j:plain

 

南端土塁写真

f:id:temeraire1839:20201126204322j:plain

 

南西端張出写真

外側

f:id:temeraire1839:20201126204345j:plain

内側西

f:id:temeraire1839:20201126204404j:plain

内側東

f:id:temeraire1839:20201126204433j:plain

 

土塁 空堀

北西部

f:id:temeraire1839:20201126205838j:plain

北東部

f:id:temeraire1839:20201126210025j:plain

南谷部虎口

f:id:temeraire1839:20201126205456j:plain

南郭東土塁、空堀

f:id:temeraire1839:20201126224953j:plain

溜池?

f:id:temeraire1839:20201126205434j:plain

 

遠景写真

f:id:temeraire1839:20201126210053j:plain

 

  • 参考文献

   webサイト「城郭放浪記」さんを参考にさせて頂きました。

 

   岡山県文化財保護協会  令和2年2月28日発行

    岡山県中世城館跡総合調査報告書 第3冊 美作編

 

   第25回国民文化祭津山市実行委員会  平成22年10月30日発行

    美作国の山城

山口城

 

山口城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

f:id:temeraire1839:20201109212307j:plain

 

山口集落の背後、標高420.9m(比高約130m)の山が山口城です。

山頂部の全域を削平した単郭で、郭全周を5m前後切り落として切岸としています。

虎口は、北と南の二ヶ所見られ、南の虎口は郭東縁の土塁が外に向かって張り出しています。北の虎口には土塁の様な高まりが囲んでいる様に見られました。北西角のものは私は虎口ではなく崩れないし後世に人が下りた為にできたものでは無いかと思います。

東西の斜面には不明確なもの含め数本の竪堀があります。

北の尾根は2本の堀切で遮断しています。

2009年に登った時は、城域は檜林で下草は有るものの遺構は確認できましたが、先週末の状況は恐らく台風による倒木を郭内に倒したままで藪化しており厳しいものでした。

 

2009年撮影写真

南虎口

f:id:temeraire1839:20201109212334j:plain

f:id:temeraire1839:20201109212442j:plain

 

郭東部

f:id:temeraire1839:20201109213515j:plain

 

郭北部

f:id:temeraire1839:20201109212752j:plain

 

東切岸

f:id:temeraire1839:20201109212358j:plain

 

内側堀切南切岸

f:id:temeraire1839:20201109213030j:plain

 

北虎口部

f:id:temeraire1839:20201109212518j:plain

 

内側堀切

f:id:temeraire1839:20201109212459j:plain

 

外側堀切

f:id:temeraire1839:20201109212556j:plain

 

東斜面竪堀

f:id:temeraire1839:20201109212617j:plain

f:id:temeraire1839:20201109212642j:plain

 

2020年撮影写真

南虎口

f:id:temeraire1839:20201109213722j:plain

 

西斜面竪堀

f:id:temeraire1839:20201109213745j:plain

 

f:id:temeraire1839:20201109213805j:plain

 

内側堀切南切岸 f:id:temeraire1839:20201109213824j:plain

 

遠景

f:id:temeraire1839:20201109213838j:plain

 

  • 参考文献 

 戎光祥出版株式会社 2017年8月10日発行

 城郭談話会編 図解 近畿の城郭4

大仙山城

  

大仙山城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)f:id:temeraire1839:20201104210342j:plain

 吉井川と吉野川が合流する所の、吉井川の右岸のある茶臼山(標高174m/比高120m)の東に張り出した尾根のピークには現在模擬天守が立っている茶臼山城、北の吉井川の断崖に張り出したピークに大仙山城は有ります。

北の城の名称は「備前周匝茶臼城址発掘調査報告書」内で大仙山城、改修赤磐郡志では三の丸、城郭大系では出城となっているようです。

大仙山城の遺構は、中央が一段高くなった郭が主郭と思われ西側に土塁が見られ、中央付近に一折れで入る虎口が開いています。

北に一段、東に二段の土塁に囲まれた郭があります。

西斜面には多数の竪堀(畝堀)が見られます。

南の茶臼山山頂に続く尾根上には、数本の堀切が連続してありますが周辺には郭などの削平地は見られません。

主郭及び東の郭には径10m前後窪地、中には水の溜まっているものもあり溜池ないし井戸と考えられます。しかし茶臼山城の模擬天守の北側に径9×7m深さ4.5mの竪穴が発掘調査で検出されています。報告書では貯蔵施設でないかとされています。(上家が復元されているためか古代住居と思われるむきもありますが)もしかすると同じような物の可能性があるのではないかと私は考えます。

 

主郭東写真

f:id:temeraire1839:20201105234944j:plain

 

主郭西写真

f:id:temeraire1839:20201105235025j:plain

 

主郭南写真

f:id:temeraire1839:20201105235139j:plain

 

主郭西虎口

f:id:temeraire1839:20201105235041j:plain

 

溜池?写真

f:id:temeraire1839:20201105235119j:plain

f:id:temeraire1839:20201105235101j:plain

 

西斜面横堀写真

f:id:temeraire1839:20201105235220j:plain

f:id:temeraire1839:20201105235240j:plain

 

西斜面畝堀写真

f:id:temeraire1839:20201105235300j:plain

 

東郭写真

f:id:temeraire1839:20201105234926j:plain

 

 

南尾根堀切写真

f:id:temeraire1839:20201105235357j:plain

f:id:temeraire1839:20201105235321j:plain

 

遠景写真

f:id:temeraire1839:20201105235411j:plain

 

  • 参考文献

   岡山県吉井町教育委員会  平成2年3月31日発行

    備前周匝茶臼城址発掘調査報告書

黒木西城

 

黒木西城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

f:id:temeraire1839:20201022214352j:plain

 

大宇陀本郷の溜池の南から東にかけて続いている丘陵地の、標高約450m(比高約60m)のピークが黒木西城です。

丘陵の先端には黒木北城、東側の丘陵には黒木東城と比較的規模の大きな城が密集している状況です。また本郷の谷の西の丘陵には本郷城があり、北城、東城、本郷城は空堀が印象的な城ですが、この黒木西城は異なる感じがします。

黒木西城の遺構は、C形の尾根の上に削平地を作り、南に大規模な堀切で尾根を分断しています。堀切を超えた尾根上にも削平地、小規模な堀切があるので南に向かって尾根を歩きましたが城郭遺構は見られませんでした。

黒木西城の見どころは、北部にある竪堀で西は急斜面に30mを超える物が、東には緩斜面の端に短い竪堀が見られます。

この様な黒木西城の縄張りですが、C形の尾根の内側(東)の削平地(耕作地の跡と思われます)が郭だとすると、伊賀でよく見られる丘陵を切り込んだ形ですが私はその点、否定的に考えていますが。

 

北部郭写真

f:id:temeraire1839:20201022214150j:plain

 

中央部郭写真

f:id:temeraire1839:20201022214245j:plain

 

北西斜面竪堀写真

f:id:temeraire1839:20201022214228j:plain

 

北東斜面竪堀写真

f:id:temeraire1839:20201022214319j:plain

南端堀切写真

f:id:temeraire1839:20201022214210j:plain

 

南端堀切南削平地写真

 

f:id:temeraire1839:20201022214302j:plain

 

  • 参考文献

   戎光祥出版株式会社  2014年8月8日出版

    城郭談話会編  図解 近畿の城郭1

玄蕃尾城


玄蕃尾城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

f:id:temeraire1839:20201015192504j:plain

 

賤ヶ岳合戦における柴田軍の本営とされる玄蕃尾城です。

30年前、初めて登った玄蕃尾城は、熊が出そうな藪山で充分に見ることが出来ず帰ってきた思い出があります。

平成16年に余呉町教育委員会による調査の後、定期的に整備が行われているようで現在は、直近まで自動車で行け駐車場にはトイレまで設置されており非常に行きやすい状態になっています。但し他の陣城、天神山砦、神明山砦、堂木砦等はあまり整備は行われておらず、行市山砦はいつ行っても笹薮で遺構はよく確認できず、左禰山砦はせっかく遺構を潰して作った林道が途中2か所ほど崩落して通れなくなっている等あまりよくない状況です。

玄蕃尾城の遺構は、中央の方形の土塁囲みが主郭と思われ、北東角に櫓台、北、東、南に虎口が開いています。各々の虎口の外には馬出郭が付属しますが、南の馬出郭の外には土塁囲みの郭が2重に続きます。これは南方向には尾根が行市山に続くためと思います。

北部の、北から西にかけて深い空堀、土塁に囲まれた郭は主郭以上の規模で北東角に虎口が開き出ると尾根続きで栃ノ木峠、椿坂砦方面に至ります。

この様に玄蕃尾城は、縄張的に賤ヶ岳合戦の陣城では最も見るべきものがあると思います。

 

 主郭写真

東側 f:id:temeraire1839:20201016082219j:plain

 南側

f:id:temeraire1839:20201016082235j:plain

 北側

f:id:temeraire1839:20201016082254j:plain

 櫓台 f:id:temeraire1839:20201016082330j:plain

 東馬出虎口

f:id:temeraire1839:20201016082154j:plain

北馬出虎口f:id:temeraire1839:20201016082357j:plain南馬出虎口

f:id:temeraire1839:20201016082544j:plain

 

北郭写真

南より

f:id:temeraire1839:20201016082447j:plain

南部空堀

f:id:temeraire1839:20201016082418j:plain

虎口

f:id:temeraire1839:20201016082502j:plain

北部空堀

f:id:temeraire1839:20201016082527j:plain

 

南郭写真

内側郭

f:id:temeraire1839:20201016082624j:plain

f:id:temeraire1839:20201016082658j:plain

内側郭虎口内部

f:id:temeraire1839:20201016082603j:plain

外側郭

f:id:temeraire1839:20201016082642j:plain

南端虎口・土塁

f:id:temeraire1839:20201016082711j:plain

 

  •  参考文献

   滋賀県長浜市教育委員会 平成25年9月

    賤ヶ岳合戦城郭群報告書

    平成16年度旧余呉町教育委員会 賤ヶ岳合戦城郭群報告書

八講師城

 

八講師城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)
f:id:temeraire1839:20201009101158j:plain

 

米原市梓河内集落の東、標高461m(比高320m)の三角点から西につながる稜線が八講師城です。

稜線の最も広くなっている所の3段の郭が八講師城の主要部で、北、南、北東、南東と三角点につながる東の尾根上にも遺構が見られます。

主要部の3段の郭は、西が最も高く西から南にかけて堀残しで土塁状になっている所を櫓台とし、主郭と説明(米原市公式webサイト内八講師城トレッキングマップ)されていますが私は2段目の郭が主郭で、西の郭全体が櫓台的な機能を持っものと考えます。

2段の郭は、削平が良く東側に土塁が見られます、土塁の南端に最下段の郭に降りる虎口があります。

3段目(最下段)の郭は、東から南にかけて土塁が残り南の中央付近に南尾根の郭群に降りる虎口と思われる所があり石が集めれれています。他に石が集まっている所がありますが石垣が崩れた物か不明で、まとまって石組になっている所は見られません。

南の尾根の郭群には石列ではないかと思われるものがあり、東斜面には竪堀が下りていました。

北尾根の郭群の東斜面にも竪堀がありました。

北西及び南西の尾根にも数段の郭があり、所々竪堀の様なところがありますが明確なものではありません。

現在、主要部最下段郭の北に登山道が取りついていますが虎口でなく後世のものと私は思います。この下の谷部に堀切の様の地形がありますが不明確です。登山道は東の三角点方向に続きますが削平地、切岸なような所がりますが不明です。

 

中段郭写真

f:id:temeraire1839:20201009155822j:plain

 

中段郭切岸写真

f:id:temeraire1839:20201009155724j:plain

 

中段郭虎口写真

f:id:temeraire1839:20201009155742j:plain

f:id:temeraire1839:20201009155802j:plain

 

下段郭写真

f:id:temeraire1839:20201009155841j:plain

 

下段郭土塁写真

f:id:temeraire1839:20201009155940j:plain

 

 

 

北尾根郭写真

f:id:temeraire1839:20201009155908j:plain

 

北尾根竪堀

f:id:temeraire1839:20201009160418j:plain

 

南尾根郭石列

f:id:temeraire1839:20201009160058j:plain

 

南尾根竪堀

f:id:temeraire1839:20201009161009j:plain

 

 

  • 参考文献

   戎光祥出版株式会社 2017年8月17日発行

    城郭談話会編 図解 近畿の城郭4