下小屋城

下小屋城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

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 群馬県渋川市伊香保町東吾妻町の境界付近、北を沼尾川、南をその支流が流れ東で合流している350m×150mの台地状になっている所が下小屋城です。西側は川の蛇行により幅約30mで陸続きとなっていました。西から城に入ると高低差の無い平坦地が続き南北の台地の縁を高さ1.0m前後の土塁が見られます。東側の土塁は2.0m強の高さがありました。この土塁の東に日本城郭大系の図では2段の削平地がある様になっていますが、下小屋城の所在地を探すのに時間が掛かり時間、体力切れで確認できていません。西側の部分では大系によれば3か所ほど堀切が書かれていますが見当たりません、全体的にも大系の図面とは大きく異なり改変された結果かとも私は思いましたが、土塁の状態を見る限りでは内部に重機が入って土を寄せてできたものではないと思います。西の虎口があったと思われる所の北にはマウンド上の高まり、南の切通状の内面には大きめの石を使った石組みが見られました。

 

東部土塁写真

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南東部土塁写真

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虎口?写真

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北西部土塁写真

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西虎口石組み?写真

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  • -参考文献  

     webサイト

      余湖くんのホームページさん    
      参考にさせて頂きました。

 

 

田屋城

 

田屋城縄張図(国土地理院の電子地形図25000) 

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高島市マキノ町森西の集落背後(西)の標高309.9m(比高約200m)の尾根のピークが田屋城です。このピークの原地形は広い平坦地であったと思われ、この平坦地に土塁に区画された三つの郭が東西に並んでいます。中央、西の郭の背後は一段低い郭で西側は削り残しの土塁、東側は主郭に至る道が土塁状になっています。最も北は高くなっていますがおそらく尾根が出ていたと思います、その上面を掘り下げ東、南、西を土塁として残し北側のピーク部を櫓台状にして残しています。ここはおそらく主郭(奥の丸)と思われこの郭の土塁の南東角を利用して2折して入る虎口としています。主郭の背後は深く掘り下げた堀切で東に竪堀が3本見られます。堀切の北は平坦地は約70m続き尾根を分断する堀切が有りますが、この平坦地について私は郭では無いと思います。各所に竪堀が見られますが南中央部の竪堀は他のものより幅が広く長さも約100m強続きます。なお谷を隔てた東の尾根上には馬駆け場と呼ばれる土塁、空堀の遺構があります。

 

主郭虎口写真

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主郭南西部内側土塁写真

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南東郭の南東部土塁写真

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南東郭の南部土塁写真

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南西郭の西部土塁写真

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堀切部竪堀写真

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北端堀切写真

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渋川市の城

4月29・30日の日程で群馬県の城を見に行きただ今帰宅。総走行距離1170km大阪府から群馬県までの往復にしては案外距離が少ない印象です。29日は熱くなく寒くなく城を歩くには絶好の天候で、最初は赤城村長井坂城、行く前に思っていたものと異なり規模の大きいものでした。次は棚下の砦、長井坂城の南約1kmの利根川に張り出した断崖の上にあり長井坂城と何かしら関係ある様に思います。当日若い方がおられたので同好のかたかと思いましたが、話しを聞くと利根川を渡る上越線の鉄橋を見下ろす事が出来る撮り鉄の方のなかでは有名なポイントの事でした。29日最後は伊香保町の北にある下小屋城、沼尾川とその支流が合流するところにある約300m×150mの台地上の地形で東側で川が合流し西側は川の蛇行により幅は30m程度しかありません、この台地の全周を土塁が取り巻いていました。此処も思っていた以上に規模が大きいものでした。

長井坂城遠望写真

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長井坂城主郭土塁写真

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棚下の砦、堀写真

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下小屋城土塁写真

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30日は、高崎市の根小屋城に行く予定をしていたが、朝からの雨で断念してきれいに公園化されている甘楽町麻場城へ向かい、主郭を取り巻く深い堀が残っていました。麻場城の次は南西2kmの所にある長畝砦に行ったが土塁、空堀、櫓台が残っているはずが、現状は貸農園となっていて櫓台と思われるもの以外見られなかった。この時分で雨が激しくなり城を見ることは諦め、根小屋城のルート確認することも合わせ上野3碑(多胡、金井沢、山上)をみて帰路につきました。

麻場城空堀写真

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長畝砦遠望写真

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 -参考文献
  webサイト
    「余湖くんのホームページ」さんを
     参考にさせて頂きました。

 

亀山城

 

亀山城縄張図

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亀山城縄張図は高橋成計氏作図、氏の許可を得て使用しています無断での他への使用及び複製しないでください。

 与謝野町のほぼ中央部、国道176号線の西に隣接する比高約50mの小丘陵が亀山城です。城の内部は竹藪で覆われており歩き回るのには苦労しました。登り始めるとすぐに耕作地と思われる平坦地が現れそれらを順次登っていきますが、登山道などは全くありませんでした。山頂部は南北約60m、東西約20mの平坦地となっており主郭と思われます。南西角の尾根が取り付く所以外6m前後切岸となっており北側の切岸は10mを越えていました。この主郭にたいし虎口、登り口など見つけることが出来ませんでした。南西角に接する郭は先端で南北に分岐し、南側の郭は45×15mの規模でこの郭周辺は竹藪が無くやや歩きやすくなっていました。北側の郭には地元で城主を祭った祠とされる祠跡があり、これらの郭東西の切岸も10m強ありその下はおそらく切岸を削った際にできた平坦地となっていました。これを腰郭としその下の平坦地も関連するものとしてどこまで城域とするか難しい問題と思いました。祠のある郭に北には数段の郭となっています。

 

南西尾根郭写真

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北西尾根郭写真

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遠景写真

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-参考文献
京都府教育委員会

  京都府中世城館調査報告書 第1冊 丹後編 

京都府自治体情報化推進協議会

  京都府・市町村共同 統合型地理情報システム(GIS)遺跡マップ

城郭談話会

  図解 近畿の城郭3

 

 

 

新城城

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4月7日のブログ久米郡内の城の中の、新城の図面が書けました。東に張り出した尾根の比高70m(標高240m)のピークを利用して新城は築かれていました。尾根のくびれたところの中央を幅5mの土橋状に残し、15mの幅で空堀状に掘り下げている様に見え、堀の南北には竪堀が降りています。空堀東の切岸は土塁上面まで4m強の高さがあり、この西側の土塁は明確に残っていますが北、南側に回り込んだところの土塁は痕跡程度です。南側の塁線は東へ10m入ってところで3m張り出して横矢状になっていました。この部分の下に前面に土塁による虎口の様な構造を持つ郭がありこの郭の奥には上の郭に入るスロープがありました。この郭の存在により西側土塁中央部の切れ込みが虎口とされている点に私は疑問に感じました。東側は急峻な尾根が下っていおり途中に一段削平地が見れました。西側はフラットな地形が続きますが城に関するようなものは見らえませんでした。

 

西部土塁写真

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竪堀写真

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南郭写真

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遠望写真

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  • 参考文献

株式会社 新人物往来社

  日本城郭体系 第13巻 岡山

おかやま全県統合型GIS

  遺跡地図

津山市教育委員会  生涯学習部 文化課

  美作国の山城

ホームページ 落穂ひろい内

  古城ひろい 美作の城

 

御冠山

鳥取県湯梨浜町大字上橋津の馬の山(106.9m)の毛利勢に対して、羽柴秀吉鳥取県湯梨浜町大字宇谷の御冠山(標高186.4m)に陣を敷いて対陣したと言われています。御冠山は中腹の倭文神社から先は道もなく藪の中を山頂を目指した歩きました。神社の東の谷に写真の削平地がありましたが、神社及び寺に関連するものか。谷はから西側斜面を山頂付近まで歩きましたが他には陣の跡と思われるものは見る事が出来ませんでした。

神社の東の谷の削平地

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西側斜面西側斜面途中の土塁の様な物

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吉田浅雄氏作成十万寺城古城の図(羽衣石所在城)

歴史群像№173号 2022年6月号(株式会社ワン・パブリッシング)の【伯耆】羽衣石城陣城郡の記事中において「赤色立体図」で十万寺城が発見されたとありますが、鳥取で城郭調査を行われておられた吉田浅雄氏(故人)が実地調査で指摘されているのにもかかわらず、先行研究を顧みられない記述に憤りを覚えずにはいられません。いかに言ったもん勝ちの世界かもしれませんが。同時に番城についても吉田氏は指摘されています。

ネットのサイトで東伯郡湯梨浜町の「羽衣石所在城」と紹介されいるのを見つけ、あの狭い谷に新しい城が見つかったのかと思いましたが、内容や写真を拝見させていただくと十万寺城(2014年4月28日のブログ)の事と分かりました。何かの理由で羽衣石所在城(鳥取県中世城館分布調査報告書ではその様になっていました)と呼称が変わったのかと思いますがよく分かりませんでした。十万寺城は鳥取において羽柴秀吉に関連する城を探している中で、「伯耆羽衣石城(尾原 隆男氏著)」の中に十万寺古城の図が折り込みで入っているのを見つけました。詳細に見ると土塁に囲まれた主郭と思われる所に”たいこうがなる”と書入れがあり驚きました。図は吉田浅雄さんの図で早速連絡したところ、地元でそのような伝承がある、城につては昔の事なのでよく覚えていないので自分で行って確かめて下さいとご返事でしたので、日を措かず行ってきました。土塁囲み主郭は50m以上の規模があり尾根が取りつく所は大きく掘り下げて遮断している所が印象にのこりました。全体的な印象はこの地方にある城とは形態が異なり、羽衣石城に対する羽柴秀吉方の後詰の陣城との思いをもち帰ってきました。

  • 参考文献

日本古城友の会  平成6年10月2日発行(28年前)

  城と陣屋シリーズ207号 伯耆羽衣石城 尾原 隆男氏著

戒光祥出版株式会社  2018年1月15日発行

  高橋 成計氏著 図説日本の城郭シリーズ6 織豊系陣城辞典 

戦乱の空間編集会  2012年7月発行

  戦乱の空間 第11号 

  高橋 成計氏 織田氏因幡進攻における陣城構造