私は今まで、羽柴秀吉の播州三木、因幡鳥取、備中高松、などの陣城を過去調べてきました。
天正13年の南紀侵攻戦では、湯川記によると
仙石権兵衛秀久
尾藤久右衛門(宇多 頼忠)
藤堂与右衛門(高虎)
蜂須賀彦右衛門(小六正勝、天正14年死去の為南紀に行ったか疑問です)
青木勘兵衛(一矩)
宇野若狭守
杉原越前守(杉若越前守無心誤りか)等
3000余の勢力で三月に田辺に攻め込み、杉若越前守が三宝寺村で山本氏と戦っています。
また、仙石権兵衛、尾藤久右衛門、藤堂与右衛門は潮見峠で湯川氏と戦っています。
しかしながら山本氏、湯川氏共に勢力を排除することが出来ず、翌天正14年に湯川直春、山本保忠等が
謀殺されることでで南紀侵攻戦は一応終了します。
この間秀吉勢力が築いた(または改変)城は無いか探してみました。
芳養の泊城を攻略後、大内谷陣、塗屋城、三宝寺陣、等ありますが塗屋城以外は詳細不明です。
塗屋城
JR朝来駅西の東に張り出した尾根を利用しており、堀切で尾根を分断し数段の削平地を築いていました。
最上段の郭の堀切に面しては土塁がありました。基本的には在地勢力の城と思います。
他に上富田町ホームページの上富田町文化財教室シリーズでは野田城を寄せ手の城としています。
野田城
- 野田城縄張図
冨田川に架かる郵便橋北詰にある丘が野田城で、丘の頂に高さ0,5〜1,5mの切岸が見られ、
南には土塁の痕跡のようなものもありました。
麓のお宅で話を聞くと過っては畑に使用していたとの答えで、切岸の内側に見られる溝は畑の水切りの為で、
切岸に直角に切り込んだ溝もありました。
以上の様な現状では秀吉勢力の陣城の確証はありません。
秋津野町のホームページでは岡畠城に杉若越無心が入り西原城(不動寺城)とした記事がありました。
西原城
高尾山の尾根にあり梅畑の東側に高さ2m前後の切岸が50m程度のこっています。
秋津野町のホームページには、この切岸のの根元に空堀状のものが写った写真がありますが。
現在、伐採された木や土砂で埋められています。
切岸の上は、全面梅畑に開墾されているためこの城も秀吉勢力の陣城の確証はありません。
浄土山城
熊野古道の長尾坂を上り潮見峠に向かう途中に西に張り出した尾根が浄土山で、そのピークが
浄土山城とされ石碑が立っていますが、全面梅畑に開墾されているので明確の遺構はありません。
潮見峠の際に秀吉勢が陣を敷いた伝承があります。
以上の様に秀吉勢力に関わる伝承を持つ城すべてで確証を得ることが出来ませんでした。
しかし山本氏の城とされる城の中で、他の城とは性格の異なる縄張の城があり、それが国陣山城です。
国陣山城
- 国陣山城縄張図
冨田川右岸の比高約120mの山上に国陣山はあります。
山上は広く梅畑になっていますが、城域はかろうじて畑にならず雑木林となり遺構は残っています。
私は、国陣山城を訪れるときは梅畑の道を上らせてもらいますが、畑の境から雑木林進むといきなり土塁が見え
これは良い城が見れると喜ぶが遺構はそれだけで、山頂を広範囲に歩くが僅かな切岸以外に城郭にともなうものは
ありませ。
西側の空堀は、北側では土塁となり下っています。
南側は、直角に折れて東の切岸の下に続いており25m程度は空堀状になっていますが、それから先は切岸だけで
尾根が取りつくところにある竪堀で終わっています。
郭の南西角には10×10mのの櫓台があり、その北には0,5mの土塁が続いています。
郭の北は約2m切岸が80m続いています。
この南北の切岸の中は、平坦になっていますが自然地形です。
北は標高134mのピークに向かって尾根がつながっていますが、その根元に切岸と堀切状のものが見られますが
私は山道と判断しました。
以上の様に、一見秀吉勢の陣城のような形態をしていますが私は違和感を持ち、秀吉勢の陣城の確証を持てませんでした。
国陣山城空堀写真
以下比較のため同時期の秀吉勢の陣城を紹介します。
天正8年高松城の戦いの先駆ける毛利・宇喜多境目争いの、宇喜多の陣城と考えています。
三上山砦
- 三上山砦縄張図
高松城の北、三上山の標高202mピークにあり現在岡山空港のラジオビーコンが隣接しています。
低土塁囲み、平虎口、折れのある塁線等、陣城の特徴を持ちます。
三上山砦土塁写真
下足守砦
- 下足守砦縄張図
三上山の東方の丘陵にあり、岡山GISの遺跡地図では方形土塁とありますが、
西砦は、低土塁囲みで南と東に虎口が開き、櫓台があります。
東砦は、尾根上の広くなった所にL字形の土塁があり南に虎口が開いていました。
この土塁以外は、切岸もありません。
下足守西砦土塁写真
下足守西砦櫓台写真
下足守東砦土塁写真
仮称百田城
- 仮称百田城縄張図
天正8年毛利境目7城のうちの宮路山城に対する宇喜多の陣城と考えています。
鳥取城包囲の砦
五反田砦
- 五反田砦縄張図
二位谷の秀長の陣所上り口にあります。
秀長の陣所が鳥取城方面に展望がきかないので前哨の役目を持つと思われます。
櫓台を持ちます。
- 秀次の陣縄張図
高場之陣所
- 高場之陣所縄張図
中水道北尾の陣所、次北尾根嵩陣所
- 中水道北尾の陣所・次北尾根嵩陣所縄張図
次北尾根嵩陣所は、鳥取城方向に土塁があるのみで他方向には切岸も明確ではない。
中水道北尾の陣所は虎口に関連する土塁囲みの郭と、その奥の主郭の2重構造を持ちます。
天正8年毛利方の高城、鶴田城両城に対する宇喜多の陣城と思われます。
寄城、蕨尾砦
- 寄城縄張図
寄城は、高城の尾根続き北500mの所にあります。
蕨尾砦は、鶴田城、高城城は谷を隔てた山にあり、共に低土塁囲み、平虎口、折れのある塁線等、
陣城の特徴を持ちます。
寄城土塁南東角写真
寄城土塁南折部写真
寄城土塁西折れ写真
寄城虎口写真
蕨尾砦縄り図
蕨尾砦虎口写真
蕨尾砦土塁東折部写真
蕨尾砦土塁北折部写真
天正18年小田原攻めの際の秀吉勢力の陣城
御所山城
- 御所山城縄張図
石垣山から箱根に続く尾根上には、現在自動車道ターンパイク箱根が通っているが石垣山から約5km所、自動車道の北のピークにあります。
尾根の小ピークを削平し、中央に土塁で東西の二つの郭に分けています。西側の郭には北に向かって開く土塁による虎口があります。
近くに、太閤道と呼ばれる山道がありこのルートの中継、監視のための陣城と思います。
御所山城虎口下より写真
御所山城虎口上より写真
- 参考文献
日本城郭体系 第10巻 和歌山
上富田町
上富田町誌資料編上
戦乱の空間編集委員会
戦乱の空間 第11号
高橋 成計氏 織田氏の因幡進攻における陣城構造
愛知中世城郭研究会
愛城研報告 第12号
畑 和良氏 毛利備中戦役と城館群