小谷城大嶽

大嶽縄張図

小谷城のある小谷山山頂(標高494.6m)に大嶽と呼ばれる城郭遺構があります。
私が城に興味を持ち、城を歩き始めたころは
大嶽は小谷城の詰め、もしくは浅井氏初期遺構(滋賀県中世城郭分布調査7)と言われることが多かったのですが、
近年では、元亀年間の戦いの際小谷城の後詰を朝倉氏がおこなったときに大嶽に陣取ったので、
大嶽の縄張りは朝倉氏が関わった(近畿の城郭4)ように言われることが多くなっています。
大嶽の遺構は、山頂を広く削平し東側の南半分を除き上面で幅4〜6mの土塁が囲んでいるのが主郭と思います。
主郭の虎口は東の土塁の端で間違いないと思いますが、南東の角に石材が散乱している窪地がありますが、
ここが虎口するとその外の郭の虎口が直下にあり一直線に主郭に入るルートには違和感を覚えます。
主郭の西には約7m下がって、東には約2m下がって郭があります。
東の郭の北東角に南北両側に土塁のある虎口があり、
二つ折れで入るルートになると思われ非常に興味深いところです、
この虎口から入ると主郭東の土塁上から制圧をうけるかたちになると思います。
これら3つの郭の北から西さらに南のかけて土塁が高さを下げながら続き、
土塁南端では主郭からの高さが約20mあります。
土塁の内側は、削平が不十分ながら郭と思います。
土塁の南端は、大きく張り出しており、高さ2m強の土塁で囲んでいます。
これは、この部分に福寿丸、山崎丸のある尾根取り付いているためで尾根の根元には巨大な竪堀が掘られています。
以上の様な遺構の現状は、詳細に見ると特徴的な部分がたくさんあり先の二つの考え方は
私にはすんなり納得できないところです。
なお、高橋成計氏によれば南の竪堀は、東に回り込んだ斜面にさらに2本あるとされています。
小谷城から続く東の尾根には藪の中にたくさんの削平地が見られますが、詳細まだ調査出来ていません。
また、月所丸から北に進むと峠を越えて北の山田山に続く尾根がありますが、
この尾根を越前道と呼ぶ伝承があるようで山田山まで歩きましたが
山頂に小学校のプール位の大きさの窪地がありましたが、特に城郭遺構と考えられるものは有りませんでした。

主郭写真

主郭北虎口

西郭写真

南竪堀写真

南土塁張出部写真


西側土塁写真

南側土塁写真

  • 参考文献

滋賀県教育委員会・近江の城友の会
 滋賀県中世城郭分布調査7(伊香郡東浅井郡の城)
城郭談話会
 図解 近畿の城郭4