中国縦貫道路を利用すると加西インターの西、北条バス停付近の北の山がきれいに刈り取られ小谷城の看板が目につきます。最初に登った約30年前は酷い藪山でしたが2007年ごろから山頂付近を刈り取られているのが麓から見ることが出来き、加西市が調査でも実施しているのかと思っていました。昨年10月久しぶりに訪れると小谷城保存会の皆さんが活動されており、お話を聞くと年に数度かと思いましたが毎月城域及び登山道を刈り取り整備を行っておられるようで、結果非常に見やすい状態を保っておられました。標高218m(比高)の山頂部の約70mの幅の狭い削平地が主郭と思われます。主郭から西に三段の郭があり三段目の郭の南側が大きく切り込まれており虎口の様に私には見えました。これら東部の郭の南北には空堀(東では切岸の様に見えましたが)が主郭の東下の腰郭の東の堀切まで続いているようです。東部郭群の西に幅の広い堀切で城域を分断して西側に二段の郭があり西端の郭の南には虎口が開いています、その外は小郭になって形態的には外枡形の様に見えます。この西部郭群の南には土塁と郭の間が空堀となっていますが、通路となっている様に私には見えました。以上の様な横堀を主体とする縄張の城は付近には無い様な気がします。出典不明ですがWikipediaによれば三木城落城後に「秀吉配下の山城宮内少輔忠久」により改修とありますが、天正8年の時点では戦線は西方に移動しているのに加西の様な中途半端な所に城を作る意味が私には分かりません。なお関連は無いと思いますが小谷城は天文年間(天文11年とされていますが、この年は大内、毛利氏による富田城攻めあり尼子氏が山陽道に出ることは無いと思いますが)に尼子氏により攻略されていますがこの時期の尼子氏の陣城(安芸吉田の風越山城等)には横堀が顕著にみられる縄張が見られます。
主郭西方向写真
主郭東方向
東部郭群西方向
東部郭群東方向
東部郭群東堀切
中央堀切写真
西部郭群西方向写真
西部郭群南空堀写真
西端郭虎口外側写真
西端郭虎口東より写真
西端郭虎口北より写真
遠景写真
- 参考文献
城郭談話会
図解 近畿の城郭1