釣鐘尾城

 

釣鐘尾城縄張図(国土地理院の電子地形25000)

 

谷田川の左岸、初鹿野集落の背後(西)の山(標高94.5m/比高約80m)が釣鐘尾城です。

山頂は南北にピークがありそれぞれが郭で、北と南の郭の間は鞍部となっていますが特に堀切っているように私には思えません。

北の郭は全周を5.0m前後の切岸で切り落とし、東縁は低いが幅の広い土塁でその南端が虎口の様に思います。北と東に延び尾根に郭がありそれぞれをつなぐように腰郭となっています。北と西の斜面には竪堀あり、特に北尾根の西側の竪堀は規模が大きく明確なものです。東の谷部にも規模の大きな竪堀の様なものが在りますが崩れか?、北尾根の少し下がったところに数段の削平地、東尾根にも切岸が数段見られますが明確でありません。

南の郭は南側に2か所、北側に一か所の明確な折れがありその周辺には土塁が見られ、特に南東の折れ部の土塁は高くなっています。北の郭と比べ周囲の竪堀は少なく南東の折れ部の下には堀切とつながる竪堀があります。北角には2か所の削平地があり現在その間を登って郭に入れる様になっているので虎口に関連するものか?

 

北郭写真

虎口?

北西尾根竪堀

東下郭

東谷部竪堀?(崩れ)

北尾根郭

北尾根竪堀

 

北、南郭間の鞍部

 

南郭写真

郭上面

北土塁

南東部土塁

南西部折れ

北部折れ

北下郭

 

遠景写真

 

   香美町文化財調査報告書 第2集 「香美町の城郭集成」

西幸城山城

 

西幸城山城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

 

広島県世羅町の堀の岡城(2023年1月9日ブログ)と同じように丘の頂部を囲むように切岸及び空堀が囲むような城が、県報告書にあったのでいってきました。

西幸集落の北西で国道から約850m入った丘のピーク(標高241m/比高60m)が城山城です。

堀の岡城と同じように尾根につながるところは明確な空堀形状になっていますが、西側の堀はあまり大きくなく二重になっている外側の堀は痕跡程度です。

堀の岡城と異なるのは、内側の切岸が明確で特に南側の切岸は高さ3m前後で50mほど続いています。

北の角の部分の外側が土塁状に見えるのであるいは空堀だったのか。

なお切岸で囲まれた内部は、自然地形で郭を作ったような形跡はないように私には見えました。

堀の岡城の場合は、集落と谷で隔てた丘で頂上にお社があるので集落と何か関係があると思いますが、城山城の場合は集落から遠く見通しもよくない地形で、城のある意味が私にはよく分かりません。

 

東堀切写真

 

南側切岸写真

 

北東側切岸写真

 

空堀?写真

 

北西側切岸写真

 

西堀切写真

  • 参考文献
     岡山県文化財保護協会  令和2年2月28日
      岡山県中世城館跡総合調査報告書 第3冊 美作編

 

中央構造線博物館 大鹿村

大鹿村 中央構造線博物館

今年の長野県の旅行の目的地の内のひとつ

岩石標本がたくさんあり、分かりやすい解説で楽しく見学した。

学芸員の方がいなくて残念だった。

 

今回は構造線の露頭には行けなかったが、北川露頭のはぎとり標本が展示しあった。

 

大西山の崩落跡、昭和39年の崩落で42人が死亡した。

領家変成帯の花崗岩やその変成岩の斜面が地滑りしたのでなく、斜面が割れて川に倒れこんで大規模な災害になった。

 

医王山(吉永)城

 

医王山(吉永)城縄張図(国土地理院の電子地形図25000

             「web等高線メーカー」で等高線を作成した)

 

岡山、兵庫県の境を流れる八塔寺川の谷にある入角集落の対岸(東)の山(標高162m/比高約90m)が医王山城です。

山頂部を削り残して、南に向かって2段の郭がありいずれの南面の切岸は約3mの高さがあります。

明確な土塁、竪堀などは確認できませんが、上の郭には一か所、下の郭には二か所の虎口の様な落ち込みがありますが確実ではありません。

山頂の北は、尾根が続きますが先が急傾斜で落ちこむので堀切はありません、南からの尾根を登りますが途中に堀切なようなものは見られません。

 

郭写真

 

 

北部写真

 

遠景写真

 

  • 参考文献

   岡山県文化財保護協会  令和2年2月28日 発行

    岡山県中世城館跡総合調査報告書 第1冊 備前

寺町城

 

寺町城縄張図(国土地理院の電子地形25000)



三次市向井江田町の寺町集落の背後(北)の山の西に張り出した尾根(標高296.0m/比高約70m)が寺町城です。

比高がなく簡単に登れると考えていましたが麓には獣除ファンスが厳重にしてあり、ウロウロしていると麓のお宅の御主人が出てこられて、城まで案内して頂いたうえにいろいろお話がきけ、寺町城の山は松茸山で大事にしていた、西の茶臼山城の山は昔旱魃の時に山火事を防ぐために伐採を行いその時に人の手が入っている等。

寺町城は単郭で、郭内の削平もよく東と南の切岸も明確に見ることが出来き、土塁は北側と東中央部の虎口付近によく残りその南にも痕跡が見られました。

南から東斜面にかけて竪堀がありとくに虎口付近のものは横堀状に繋がっており、西斜面の北部にも数本確認できます。

南側の中央付近に虎口の様になっているところがあり、後世のものか?しかしその上には一段下がった小削平地が張り出しているので虎口かも。

北端は堀切っていますが、両側ともに竪堀となっていないようです。

 

南端部写真

 

北東部土塁写真

 

東虎口写真

 

北土塁写真

 

東斜面竪堀写真

 

北堀切写真

 

遠望写真

 

 

  • 参考文献

   webのサイト

    「小花と春の古城めぐり」さんを参考にさせていただきました。

脇谷城

 

脇谷城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

坂内川に沿って連なる丘陵の北端が、永禄12年の織田信長による伊勢侵攻の際に籠城戦が行われた大河内しろで、その南西1km脇谷集落の背後(北)のピーク(標高164m/比高70m)が脇谷城です。

山頂部(西)とその東に郭があり、いずれも切岸は5m強あり、郭上にあがるところが見つからない。

西側の郭の南には鞍部をはさんで郭があり、その南は規模の大きい堀切で遮断しています。

西と東の郭の間は平坦になっていて郭と思います、西と東の郭の裾部は竪堀で回り込めないように遮断しています。

 

西郭写真

 

西郭北側竪堀写真

 

南郭南側堀切写真

 

南郭南西角竪堀写真

 

東郭北側竪堀写真

 

遠望写真

 

  • 参考文献

   伊藤 徳也 氏著  2022年2月8日 発行

    再発見 奥伊勢の城

 

大富山城

広島に到着した朝は、雨模様で天候の回復を待つ目的で林道で山上まで車で登れる大富山城に向かった。

西城町市街の南、東の麓を西城川が流れる山頂(標高511.2m)/比高約180m)と、山頂から南に続く尾根に天神が平、物見が平などの郭が残ります。

雨も止み山頂部の削平の良い広い郭を見て、大堀切(現在は林道で破壊)の南の尾根上の郭を確認したが予定外の大富山城でだったので、天神が平から南へは登らず西斜面の竪堀を見る、尾根上から約30m下がった所に20本以上の長さ20mを超えるもので、位置的作られた目的が私には分かりませんが、東に降りる道の痕跡があったのでこれを遮断するためかと思います。

広島県の中世城館を歩く」によれば、物見が平の西斜面にも竪堀がある様なので再度行く必要があると思っています。

大堀切から南の郭や西斜面の竪堀の表面に、多数の川原石ではないかと思われる石が多数あり不思議に思ったので帰宅して調べると、「大富山城緑地環境保全計画書」の中で現地は2億5千年前の古生層の上に新生代第4記の砂れき層がのっているとあり理由が分かりました。

 

山頂部郭写真

 

大堀切南尾根の堀切写真

 

大堀切南尾根西斜面の竪堀写真

 

  • 参考文献

   株式会社 傒水社  令和3年2月1日 発行

    表 邦男氏著  広島県の中世城館を歩く

   広島県(発行者及び発行日不明)

    大富山城緑地環境保全計画書 指定書・保全計画