高津気のシシ垣 熊野の長塁?

 

高津気シシ垣マップ 「くまの里山」発行

山城を歩くと城郭遺構か悩むものが少なからずあります。

地籍境界を示す境界土塁、耕作地跡やシシ垣等の石垣、畑や田やなどの削平地、尾根を横切る切通道、自然の地形変化等があったときはできるだけ麓の人家で聞くようしていますが、現在の私からすれば想像ができない程、山の奥まで人の生活の跡が残っています。

その中で、現在私はシシ垣に興味をもち前回は滋賀県の2例を歩きました。

和歌山県那智勝浦町高津気(こうずけ)のシシ垣

昭和の終わりごろ、毎日新聞で「熊野山中に残る謎の石垣」の記事があり、当時は「古代文明の遺跡」「神武天皇の侵入を防ぐ防塁」などと週刊誌やテレビを賑わしたことが記憶にあり、シシ垣を調べる中で、高津気のシシ垣がそれの一部であることが分かり、現地で文化や遺産の保護活動をされている「くまの里山」を紹介してもらい行ってきました。

高津気集落は那智勝浦町の北東部の長野川の源流域にあり、シシ垣は集落の西約500mの南北に伸びた尾根の東斜面の標高210mの等高線に沿って築かれていました。

斜面に2~5m程度の平坦面を作り、その谷側に石を積み上げて底から1m程度までは200~500キロの石を並べ、その上には人一人で持ち上げられる位の石を最大高さ2mの高さに積み上げていました。石積の幅は2m強で山側は人が歩ける様な通路状になっていました。石の積み方は、自然石を単純に積み上げたように見えますが、毎年8月には集落全体で「垣普請の日」が決められ整備、石積の積み直し行われその際は年長者から積み方の指導があつた様で積み方には工夫があったのではないかと考えます。

シシ垣のある場所は、山の斜面の傾斜が変わる場所でシシ垣より上は急斜面ですが、シシ垣より下は傾斜が緩く数段の水田が作られ、涸れ沢が数ヵ所あり昔は流れていた水を利用して稲作がおこなわれていたのには驚きました。(現在は耕作放棄されていますが)この水田はシシ垣から直角に東に伸びた石積みで囲われています。

シシ垣には数か所の切れ目があり「木戸」とよばれ、山側には内面に石が積まれた径約2mの穴が掘られ、私が見たものは土で埋まっていましたが深さも約2mあり「シシ壺」と呼ばれています。

今回私は高津気のシシ垣の長野川の北1kmを歩きましたが、さらに北に北1km、長野川の南は2km続き全体の延長は4kmですが、このような壮大なシシ垣が築かれたのは作物の獣害が深刻であったと思われますが、

 

シシ垣写真

 

シシ垣から垂直に分岐して田を囲む石垣

 

ヌタ木戸とシシ壺

  • 参考文献

   熊野列石研究会 昭和62年3月31日発行 

    熊野列石研調査報告書

   戎光祥出版株式会社 令和5年12月28日 発行

    歴史研究 通巻717号 

    高田 徹氏「城郭類似遺構」どこまでが城の遺構なのか