宮田氏城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)
伊賀中世城館調査会の調査により確認され城で、
神宮文書による天正10年本能寺の変の後に伊賀衆が籠った城と比定されています。
国道422号線で丸柱集落から南に過ぎると、西に南北に続く丘陵が見えその丘陵のピーク(標高310m、比高70m)が宮田氏城です。
宮田氏城の遺構は東西の二つの郭からなり、東郭は丘陵上を掘り込み北、東、南を土塁として虎口は南東角に開口しています、西側は伊賀の城の殆どの場合では堀切で丘陵を分断しますが、この城の場合は、一段高くなり西郭としています。
西郭の西は落ち込んで土塁による空堀があり、尾根が取りつく南西、北西には堀切が掘られています。
この様な縄張りは他の多くの伊賀の城とは異質な感じがしますが、これは天正10年という時間的な物か、地形的な制約か考える必要があると思います。
東郭写真
西郭写真
西空堀写真
西北端堀切
西南堀切写真
南堀切写真
遠景写真
- 参考文献
伊賀中世城館調査会
調査日誌第168号 「古城雑記」 平成6年2月28日号