北下手城

 

北下手城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

 

数年前に京都府の城館調査が行われる情報に接し、居住地近くの木津市、精華町、宇治田原町の城跡を歩いたことがありました。

若い時(約20年以上前)に歩いた木津市の鹿背山城、木津城、蔦城以外に明確な城は無く、あと井手町の井出城は城と間違いないと私は考えたていた。

京都府・市町村共同 統合型地図情報システム[GISの遺跡地図を参考に歩いたが、明確に城と分かるものはなく、宇治田原町の脇神城が城かなと思う以外、宇治田原町では現状殆どの所は茶畑の跡ではないかと私は思いました。

そのような中で異様なのは、精華町の乾谷城で尾根上に5~10m強の意味不明の丸い穴(深さ2m強)が十数個あるだけで、城にかかわ削平地、土塁、堀切などなく、麓のお宅で聞くと穴は昔からあったとお話でいったい何なのでしょう?

最近、ブログ「弥勒の道プロジェット」さんが加茂町の縄手城、下程城、浦城、北下手城をあげておられるので、その中で遺跡地図に記載のない北下手城に行ってきました。

北下手集落の背後(北)の低丘陵(標高約175m/比高40m)が北下手城です。

ピーク部は西から北にかけて土塁のある郭で主郭と思われ、土塁の外側は二重の空堀で、空堀の外側に削平地がありますが郭かどうか不明。(後世の改変があるよう)

主郭の南に一段低く郭があり、東端に幅の広い土塁、その下に空堀がありその南端で西に直角に折れ郭の南側に延びています。

以上の様に北下手城は小さいながら、縄張り的にみるべきところがあり、形態的には南の奈良県の東山内の城と同じように伊賀地方の影響を受けたように私は感じました、

 

主郭土塁

 

主郭背後上空堀写真

 

主郭背後下空堀写真

西部

北部

東端部

 

南郭写真

 

南郭土塁写真

 

南郭東空堀写真



南郭南空堀写真

西端

 

遠望写真

 

  • 参考文献

   ブログ「弥勒の道プロジェット」さんを参考にさせていただきました。

   京都府・市町村共同 統合型地図情報システム[GIS] 遺跡地図

   京都府教育委員会 平成26年3月31日 発行

    京都府中世城館跡調査報告書 第3冊 山城編Ⅰ

桑原城

 

桑原城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

 

三田市三田城車瀬城)を取り囲むように約2キロ前後の距離で、今回の桑原城、立石城(ブログ2021年1月14日)宅原城(ブログ2018年3月18日)、道上城(ブログ2019年8月31日、消滅)、約1kmに横山城(消滅)、やや離れて釜屋城(消滅)、茶臼山城(現在公園化され遺構は疑問です)等あり、いずれも織田氏による三田攻めの陣城ではないかと若いころ歩きましが、ただ現在は必ずしもそうではないと思う様になっています。

JR三田駅の東、桑原集落の背後(北)の丘陵頂部(標高212.5m/比高約70m)が桑原城です。

山頂を2か所の土塁、空堀で三つの郭に分けいずれの郭も比較的よく削平され、中央部がやや高くなっています。

仕切りの土塁は、北のものは中央が南に向かって張り出しがあり何かの意味があるのでしょうか。

南のものは中央で土塁が食違いで開き、虎口のように見えます。

南の郭は一番広く、二段になっいて東に土塁の痕跡あり南西部に高い削り残しの土塁で、この土塁の南は堀切で南に続く尾根を遮断して、北端は一段低い郭で、若い時に麓の人家の裏から尾根を登り、途中石室の開いた古墳を見てこの郭に取り付いた記憶があり虎口に関連したものか。

 

北仕切り土塁、空堀写真

 

南仕切り土塁、空堀写真

虎口?

 

南郭の南西土塁写真

 

南端堀切写真

 

遠望写真

 

  • 参考文献

   三田市史編さん委員会編 平成12年12月15日刊

    三田市史 第三巻 古代・中世資料

 

百地丹波城・城山砦(ブログ龍口城更新)

 

百地丹波城・城山砦縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

 

以前、龍口城としてブログを作成しましたが、当時は藪山でおまけに西の城山砦の中央に獣除けフェンスが設置され充分に遺構を確認できない状況でしたが、近年地元により整備がおこなわれ城域も見やすく、登山道も歩きやすく城の近くに駐車場も作っていただき楽に歩けました。

名張市竜口集落の背後(北)の尾根のピーク2か所、百地丹波城(標高417.1m/比高約130m)と西の城山砦(標高413m/)があります。

百地丹波城は頂上部のお社のある削平地が、主郭と思われ西側に土塁と思われる高まりがあります。東から南にかけて削平地がありその東から南の淵に土塁が見られ空堀の様に見えます。西側にも削平が不十分な郭があり、その西端に土塁がありその西は堀切となっています。

城山砦は、削平の良い単郭で南以外に土塁がのこります。

 

百地丹波城写真

 

城山砦写真

 

遠景写真

 

  • 参考文献

   伊賀中世城館調査会  平成20年6月1日 発行

    古城雑記 調査日誌第249号

田原城

 

原城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

田原川が流れる谷の田原集落の背後(北)の山頂(標高323m/比高約160m)が田原城です。

山頂部は比較的削平の良い郭で、その北から東にかけて低い切岸で一段低くなっています。

南部は現在、麓からの作業道が取り付いており何らかの作業が行われてようで、郭の形がよくわからなくなっており、南端の堀切も痕跡程度になっいています。

北端は堀切で、東斜面には痕跡程度のものも含め6本の竪堀が見られます。

 

東部切岸写真

 

北部切岸写真

石組?

 

虎口?写真


北堀切写真

 

竪堀写真

 

遠景写真

 

  • 参考文献

   京都府教育委員会  2013年3月発行

    京都府中世城館跡調査報告書  第2冊:丹波

高田城の竪堀

 

真庭市指定史跡高田城総合調査報告書の高田城城域地形図に加筆

美作国の山城」の高田城の図面には、小屋ノ段から現グランド間の斜面に6本の竪堀が書かれていますが、県報告書の図面にはありませんので確認に行った来ました。
現地は急斜面で藪のため確認に苦労しますが、不明確なものも含め6本前後の竪堀りを確認できました。

毛利氏による改修の痕跡か?

この辺は山形省吾氏はよく見ておられます。

 

最北の竪堀

 

  • 参考文献

   真庭市教育委員会  平成27年3月31日 発行

    真庭市埋蔵文化財調査報告書6

     真庭市指定史跡高田城総合調査報告書

   津山市教育委員会 生涯学習部 文化課 

             平成22年10月30日 発行 

     美作国の山城

桝形城

  • 城名 桝形城
  • 所在地 長野県長野市大字上松

 

桝形城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

善光寺背後の地附山の北に延びる尾根のピーク(標高706m/比高約380m)に桝形城はあります。

地附山は1985年に大規模な地滑り災害が発生し、地滑り跡は現在公園で桝形城も公園のハイキングコースになっていますがとくに整備されている様子はありませんでした。

山頂とその南2か所の郭があり、山頂の郭は北西部にわずかな土塁痕跡が見れれますが特筆するようなものありません。南西角に虎口と思われる落ち込みがあり下ると西斜面に土塁のある横堀があり、横堀の北端は北に下る竪堀で、南端は西に折れて西端は現在登山道ですが竪堀か、東端も竪堀だが途中で止まっているみたい、中央の竪堀は東に折れて続いているように見えます。

南の郭は、山頂より5~6m低く幅15m長さ50mの規模で、南側全域に土塁がありその南は現在登山道になっていますが土塁上面からの高さが3mの空堀があります。

山頂と南の郭の間はもともと谷地形であったものを掘り下げたような感じがしますが、季節的に藪であまりよく分かりませんでした。

 

山頂郭写真(主郭?)

 

南郭写真

 

  • 参考文献

    webサイト 「らんまる攻城戦記〜兵どもが夢の跡〜」

          さんを参考にさせていただきました

 

近江のシシ垣

山城を歩くと注意しなければ誤るようなものがたくさんあります。

祖先が山中に残した改変の跡、耕作や尾根を通る山道の切通等、地滑りによる地形の変化いろいろ頭を悩まします。

webのサイトでは全国で数十か所紹介されていますが、今回初めて近くの滋賀県のシシ垣を見てきました。

 

シシ垣 大津市荒川

集落背後を囲む様に500m以上残されていました。最も高いところは2m、幅も基底部で2メートル以上、大きい石を積み上げた立派のものでした。

 

「峠のシシ垣」米原市

伊吹山石灰岩の採掘場所の下、標高350m付近に西に張り出した台地状の尾根を越える峠道に沿って耕作地(畑)を囲むように築かれていました。人頭大の石を乱雑に積みあげたように見えます。この地区は江戸期には浜松藩領であったようで驚きました、