玉の城山

玉の城山縄張図

関ヶ原は盆地なので四方は山に囲まれています。北は伊吹山から南に下がる菩提山城のある岩出の山。
東の南宮山の南宮大社の上の尾根には、毛利秀元の陣跡が残っています。
南には小早川秀秋の本陣、松尾山があります。
西には今回の玉の城山がありますが、詳細は不明で慶長5年の戦いでは使われた記録はありません。
関ヶ原町役場発行の、関ヶ原の名所古跡では南北朝期に佐竹義春が入り、後の時代では浜六兵衛、杉山内蔵助等の城主が紹介されています。
しかし縄張等の遺構については触れられていませんので、今回3連休の初日に登ってきました。
麓から整備された登山道があり苦労することなく登れましたが、山頂の東屋がある周辺は笹薮になっていました。
これは、各地の城跡で良く見られますが、東屋を作った際に周辺を伐採しその後は放置した結果で、中途半端な整備は止めてほしいものです。
奥に進むと笹薮は無くなり普通の雑木林で、遺構を確認するのに特に苦労することもありませんでした。
城の遺構は、山頂を約200mにわたり削平し、その内部を1〜2mの高さで区画しているようです。
西の端は、約20mの幅の堀切が有り、その西にも郭の様な削平地があり、その西の斜面には竪堀が見られます。
山頂の削平地の南北は、7〜8mの切岸でその下は腰郭を作ることなく緩斜面ままで、南側は確認していませんが北側には
横移動を、防ぐ様に幅6mの竪堀を4本入れていました。
北東に張り出した尾根の上にも一段下がった郭があるようです。
思っていた以上の規模の遺構で、冬枯れの時期に再度今回見れなかった部分を見に行こうと思っています。
なお、山頂の削平地の中央部に直径5m強の穴が2カ所ありましたが、舞鶴の山城を調査した際に良く見たものに似ていると感じを持ちました。
帰宅後資料を探していると、関ヶ原町の作ったガイドブック中の玉の城山の項に、第2次大戦中山頂に高射砲陣地が作られたとありました。
高射砲とありますが、例えば代表的な八八式七糎野戦高射砲であれば最大射高9100mであり、比高200mの山上に上げたところで意味が無いと思いますので、
大きさからみて、九八式二十粍高射機関砲などの機関銃座ではないかと思います。
北の麓にある弾薬庫を守ると為のものと思います。

北斜面竪堀写真

堀切写真

西尾根竪堀写真

  • 参考文献

関ヶ原町役場
  関ヶ原の名所古跡