山王山城

 

 山王山城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

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西城川右岸(北)の中腹に日吉神社がある低丘陵上(標高299.1m/比高約60m)に山王山城は有ります。

東西の二つの郭に中央の土塁によって分かれ、東の郭は東から南にかけて元々のピーク部を残した土塁、櫓状で、北側は約2mの土塁が西に向かって低くなりながら続いています。西の郭は、南北に高さ2~3m土塁があり、西側の土塁は痕跡程度しか残っていません。

城に入る虎口については、西郭の北側の土塁の切れ目、西端が一段低くなり先端が開いているところがありますがいずれも明確ではありません。

城域の南北の斜面は、切岸で落として北側は高さ7mを超えて切岸の下はテラス状の段になっていて、東西は丘の稜線なので堀切を掘るところですが明確なものは見られません。

私の印象では、削平も良く居館の様に見えますが、恐らく掘っても水も出ないような細尾根なのでこの様な場所で日常的に生活することは無いように思います。

 

北土塁西張出写真

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北土塁東張出写真

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北切岸写真

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東郭南側土塁?写真

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東郭北側土塁写真

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中央仕切り土塁北側虎口?写真

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中央仕切り土塁南側写真

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西郭南側土塁写真

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西郭北側土塁写真

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西郭東側土塁写真

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  • 参考文献

   株式会社 渓水社  令和3年2月1日発行

    表 邦男氏著  広島の中世城館を歩く

天神山砦

 

  天神山砦縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

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 余呉の戦いにおける羽柴秀吉方の最前線である天神山砦は、草内神社背後の標高約210m(比高約60m)のピークから東の比高20mの尾根先端にかけて築かれています。

砦は西、中央、東、3郭が連続している様に見え、西及び中央の郭は土塁囲部とその周辺の腰郭状の削平地とそれぞれ東端に虎口に関連する構造が見られます。

中央の郭の土塁囲部の東には、馬出し郭的な土塁による張出があります。

東の尾根先端は約30m下がりの斜面を土塁で囲んでいますが、何故か柴田方が攻めてくると思われる北方向には切岸しかなく。土塁及び空堀は現在見られません。

天神山砦は、私は他の砦とは異なる印象を持ち、この点は滋賀県報告書の「湖北の山城」の中に浅井氏時代の城を改変したのではないかとあり、また近畿の城郭Ⅱでは越前朝倉氏の関連についても記述があり、私も余呉の戦い以前の城について考える必要あると思います(あくまで妄想です)。

賤ヶ岳合戦の陣城は余呉町の調査後整備が行われましたが、町市合併後はあまり整備に対する熱意が無いように私は感じられ、天神山砦についても草内神社背後の登り口が崩れて入れなくなっており、その後どのようになったのでしょうか。また東野山砦に至る林道も折角遺構を破壊して作ったのに関わらず南からは2か所程崩れで通行止めになっていましたが復旧したのでしょうか。

 

西郭

土塁囲上面東より写真

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 土塁囲上面西より写真

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 土塁囲南虎口写真

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腰郭東写真

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 腰郭北写真

 

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中央郭

土塁囲東より写真

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 土塁囲虎口写真

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 土塁囲腰郭北写真 f:id:temeraire1839:20210503114237j:plain

西堀切写真f:id:temeraire1839:20210503114146j:plain


東尾根土塁囲部写真

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遠景写真

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  • 参考文献

   滋賀県長浜市教育委員会 平成25年9月発行

    平成16年度旧余呉町教育委員会賤ヶ岳合戦城郭群調査報告書

   戎光祥出版株式会社 2015年4月1日発行

    城郭談話会編 図解 近畿の城郭 Ⅱ

   滋賀県教育委員会 平成2年3月発行

    近江城の会 滋賀県中世城郭分布調査7(伊香郡東浅井郡の城)
  

上平寺城

 

上平寺城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

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 伊吹山の南に下る尾根の標高663mのピークから約400mにわたって上平寺城は築かれています。

滋賀県中世城郭分布調査6の上平寺城(刈安尾城Ⅱ)の解説では、城域は「大方が熊笹の密生する中にあり~人をよせつけそうもない厳しい状況下にある」とあり、ながいあいだ訪れることはできないと思い込んでいた。

整備が行われたことを知り思い切って行って見ると、時間はかかるがわりと簡単に行くことが出来た。

予想以上の規模でヘトヘトになり下山。

この日は、鹿3匹、猿十数匹、山頂郭の入り口ではボス?猿と数分間睨み合い、最後に車に乗り込むと右手人差し指に蛭が、米原市の資料館により係の女性にその話すると伊吹山は蛭のメッカと仰る思わず苦笑い、数日血が止まらなかった。

 

 

山頂郭写真

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山頂郭背後堀切写真

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山頂郭下(南)郭写真

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中央堀切上(北)の郭写真

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中央堀切写真

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南郭東の土塁写真

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  • 参考文献

    滋賀県教育委員会 1989年3月発行

     滋賀県中世城郭分布調査6(旧坂田郡の城)

    戒光祥出版株式会社 2014年8月8日発行

     城郭談話会編 図解 近畿の城郭1

馬頭城(仮称)

 

馬頭城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

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先日の、平木土塁と同じく広瀬二郎氏が確認された仮称(以下略)馬頭城へ行ってきました。

金山城から南西約800mの尾根続きで標高501.4m(比高約250m)の三角点のある山頂に馬頭城は有ります。

三角点の近くにあった木の標識に「馬頭」とありましたが、山の名前か字名か私には分からなかったので城名は馬頭城としました。

山頂の南北約25mの削平地は主郭と思われ、その南西角に虎口が見られ南の小郭は虎口に関連する郭ではないかと私は思います。

さらに西から南にかけて腰郭が巡っています。

何れの郭の切岸は、高さ1.0~2.0mの明確なものです。

腰郭から南約15m下がった所にも切岸(堀切かも)があります。

単純に金山城との関連だけでなく、高橋氏によれば内藤宗勝の侵攻の際に作らた事も考える必要があるとのことでした。

 

主郭南切岸写真

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南小郭写真

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主郭虎口写真

内側より

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外側より

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西腰郭写真

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南端の切岸写真

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遠景写真

左の三角形の頂きが馬頭城・右端は金山城

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  • 参考文献

   特にありません

紫城更新

 

 紫城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

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岡山県高梁市の西は広島県神石高原町にかけて標高600〜500mの高原地帯で、その中を成羽川が流れています。

成羽川の新成羽川ダム南の崖の上(標高603.1m/比高ダムより370m・東の集落から70m)に紫城は有ります。

中央の主郭と思われる郭の南端は、折れのある切岸でその東西に虎口と思われるスロープがあります。

主郭の北は一段の削平地、南は2段削平地になっており南端は土塁があり、土塁の中央に登山道が上がってきて現地の標識では「虎口」となっていますが、ここに虎口はありえないと私は思います。

南端切岸は大きく掘り下げられ空堀から、西側は堀切となっています。

主郭の西の下、現地の標識では「搦手門」となっていますが、紫城の現状を見る限りではこの城に入るには北西の尾根からこの虎口に至るルートしかないと私は思います。

北西の尾根上には削平地、堀切等が見られます。

 

搦手門?(現地標示)写真

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北郭写真

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主郭南東スロープ(虎口)写真

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主郭南切岸写真

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南端土塁写真

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南郭写真

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南切岸、空堀写真

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南西堀切写真

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遠景西より写真

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遠景新成羽川ダムより写真

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  • 参考文献

   株式会社 新人物往来社  昭和55年1月15日発行

    日本城郭大系 第13巻 広島・岡山

平木土塁

 

平木土塁現状図(国土地理院の電子地形図25000)

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播州清水寺から北東約1.7kmにある木津(こつ)城の西麓の旧街道をはさんでん西にある山(標高287.3m/比高 峠より約60m)山上と東に下る尾根上に土塁が見られます。

長年、丹波地区で城郭調査を行っておられる広瀬二郎氏が、赤色立体図で発見され高橋成計氏が調査を行われました。

山頂部に約150m、東尾根に約140mの土塁があり、高さは山頂部で東側が1.5~最大2m、西側では1m前後で、東側に最大10m幅の平坦地があります。

東尾根部の高さは約約1.5mで広い削平地は見られず、北側には溝状おそらく道のあとが続いています。

現地を見た印象は、鳥取の桂見土塁、韮山の本立寺陣城の土塁と規模及び形態が似ていますが、これらの場合は砦、郭をつなぐように作られいますが、平木土塁の場有はそういうものはなく、可能性としては現在鉄塔が立っている所にあったのではないかと考えるのは妄想でしょう。

高橋氏によると、「羽柴秀吉丹波方面の敵を意識して、小野原氏の木津城を占拠しての、行動でしようか。街道の封鎖と考えられます」とされます。

どなたか、詳細をご存知の方がおられましたらお教えください。

 

山頂部の土塁

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東尾根の土塁

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遠景写真

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  • 参考文献

   特にありません

勝山城


勝山城縄張図(国土地理院の電子地形図250000)
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南の麓に世界遺産補陀落山寺がある山(標高69m/比高約60m)の山頂部、南尾根、東尾根の3か所の城郭遺構がある様ですが、今回山頂部と南尾根の遺構を見てきました。

山頂部の土塁に囲まれた主郭と思われる郭には、50cm程度の丸い石がいたる所に転がっており、石垣が崩れたものかと思いましたが土塁の基底部の根固めに使っているようで石垣では無く、この山頂部は海岸や河原の石が堆積した地質の様で地中に大量に埋まっている所がありました。北西角の大きな窪地があり北側の土塁が基底部の痕跡しか残っていませんがこのあたりは後世に改変された様に見えます。

主郭の南側中央に虎口が開き、南の一段下がった郭に出ます、この郭には西側に土塁があり、虎口と思われる土塁の切れ目がありました。

西側に隣接して水道施設が建設され大きく改変されているようですが、その南及び西には郭と思われる削平地がありますが明確ではありません。

主郭の東は深い堀切が掘られ、その東の尾根上に人の手が加わった跡が見える所があり、薄い土塁に囲まれている所がありますが土や石を集め積んだ様で耕作に伴う物と私は考えます。

林道の脇の鉄塔から南に約100m下ると、堀切とピークの東から西に下る尾根の北側に平行に伸びる空堀が見えてくるが、この東尾根の遺構の疑問点はピーク上の郭と思われる平坦地は径10m強の大きさで、しかも北の尾根からは見下ろすことが出来のでこのピークに籠っても意味が無いように思います。西に向かって下がる尾根には堀切らしきものが2本ありその、先端に平坦地があるが郭ではないと私は思います。

今回、那智勝浦に向かったは紀勢道がすさみ南まで伸びたので前から見たかった、古座川の一枚岩へ行くのが目的で、それに合わせて那智勝浦へ向かいましたが結構時間がかかりました。

 山頂部写真

北郭虎口

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西土塁

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東土塁

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堀切より東の尾根上の平坦部集石

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南尾根写真

堀切北より

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空堀西側

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空堀東側

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竪堀

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尾根南側の削平地

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 古座川の一枚岩

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  • 参考文献

   和歌山城郭調査研究会 2020年6月1日発行

    和歌山城郭研究 第19号

    藤岡英礼氏 特別報告 勝山城 付 神光坊屋敷・橋爪坊屋敷