杉城

 

杉城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)


瀬賀山城(ブログ22024年3月31日)のある谷の入り口にある岡谷集落の背後の尾根のピーク(標高509m/比高約100m)が杉城です。

杉城に取り付くには、岡谷集落の北端のお宅の横から入るのですがこのお宅の方が「豊栄町郷土史研究会」の会長なので色々お話を聞くことが出来ました。

杉城は3段の郭からなり、山頂部は段差のあまりない二つの郭で上段の郭の東端は削り残しの土塁となっています。この山頂部の北、東、南のの斜面とても登れないような急傾斜で東側は土塁上面から10m近く落ち込み堀切となっています。堀切の西に竪堀、竪土塁があるがその西にも明確でない竪堀状のものが見られる、

山頂部より西に10m近く下がって土塁で囲まれた郭があり、北の角近くに土塁の切れ目があり虎口と思われ西に向かって道が下っているようですが降りていません。この郭の北には2本の規模の大きい竪堀があります。

 

上段郭土塁

 

上段郭東斜面

 

東堀切

 

南斜面竪堀写真

 

南斜面竪堀状地形写真

 

下段郭写真

虎口

土塁

東南角窪地

北竪堀

遠景写真

 

  • 参考文献 

   株式会社 渓水社 令和3年2月1日 発行

    表 邦男氏著 広島の中世城館を歩く

成合遺構 市街地に奇跡的に残った城跡?

 

成合遺構縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

 

長年にわたり丹波地区で城郭調査を行われている、S氏が最近確認された城跡?です。

新名神高速道路高槻ICの西側の削り残された丘陵(標高75m/比高約40m)のピークに今回の成合遺構がありました。

三段の削平地が残り、上段の削平地(郭)は東、北、南に最大高さ2mの土塁がある約15×10mの狭小なもので、西側には土塁がなく、中段の削平地(郭)に開いています。

中段の削平地(郭)は15×15mで、東以外の全周に土塁があり、南西角の土塁が切れいるところが虎口ではないかと思われます。

下段の削平地は、不定形のやや広いもので各地に土取りの様な跡があるが郭の様に思われ、西側の中段の削平地との境目から下る竪堀状のものが見られるがその北側は竪土塁の様になっています。

全体的に見て城跡の様に思えますが、地元でも伝承はなく記録にも表れないので確実とはいえませんが?

 

上段の郭写真

 

上段の郭内部写真

 

中段郭写真

 

中段郭虎口写真

 

竪堀?写真

竪堀、竪土塁?写真

 

 

遠景写真

 

  • 参考文献

   ありません

瀬賀山城

 

瀬賀城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

 

東広島市の最北部、世羅町三次市が接する吉原町の吉原川が流れる谷に対して北に入る短い谷の奥に目立つ山(標高530m /比高約110m)が瀬賀山城です。

山頂は粗同規模(25×60m)で削平の良い南北の郭で、北郭の北先端は折れていてその内側に土塁の様な高まりがあるが不明、この南に登山道が上がっていた。

南北郭東側全域わたる腰郭がある。

南郭の西側南寄りに下る虎口がありその北に幅の狭い削平地(意味はよく分からない)、南郭の南側下に郭があり、この郭の南に堀切があり東斜面には竪堀が見られた。

北端には堀切があり、その東側の腰郭との間に竪堀が見られ、堀切の西側には竪土塁?堀切が見られるが明確でないので図面には入れていない。

北郭写真

土塁?

北郭虎口

北、南郭間の切岸

 

南郭写真

西腰郭?

虎口

 

南下段郭写真

 

北堀切写真

 

北東斜面部竪堀写真

 

北西斜面竪土塁写真

北西斜面竪堀写真

 

遠景写真

 

  • 参考文献

   株式会社 渓水社  令和3年2月1日 発行

    表 邦男氏著 広島の中世城館を歩く

 

古城山(生野城)の向城?

 

大盛山城縄張図

大盛山城縄張図は高橋成計氏作図、氏の許可を得て使用しています無断での他への使用及び複製しないでください。

 

朝来市生野町市街北の古城山から東約500mの山頂(大盛山 標高605.5m/比高約230m)が今回の大盛山城です。

今回、高橋氏が確認された遺構は東西の切岸、南北の尾根筋を遮断する低土塁、南の土塁中央には虎口か?

天正5年の織田氏羽柴秀吉)の侵攻にかかわるものか?

 

土塁写真

 

切岸写真

  • 参考文献

   ありません

高津気のシシ垣 熊野の長塁?

 

高津気シシ垣マップ 「くまの里山」発行

山城を歩くと城郭遺構か悩むものが少なからずあります。

地籍境界を示す境界土塁、耕作地跡やシシ垣等の石垣、畑や田やなどの削平地、尾根を横切る切通道、自然の地形変化等があったときはできるだけ麓の人家で聞くようしていますが、現在の私からすれば想像ができない程、山の奥まで人の生活の跡が残っています。

その中で、現在私はシシ垣に興味をもち前回は滋賀県の2例を歩きました。

和歌山県那智勝浦町高津気(こうずけ)のシシ垣

昭和の終わりごろ、毎日新聞で「熊野山中に残る謎の石垣」の記事があり、当時は「古代文明の遺跡」「神武天皇の侵入を防ぐ防塁」などと週刊誌やテレビを賑わしたことが記憶にあり、シシ垣を調べる中で、高津気のシシ垣がそれの一部であることが分かり、現地で文化や遺産の保護活動をされている「くまの里山」を紹介してもらい行ってきました。

高津気集落は那智勝浦町の北東部の長野川の源流域にあり、シシ垣は集落の西約500mの南北に伸びた尾根の東斜面の標高210mの等高線に沿って築かれていました。

斜面に2~5m程度の平坦面を作り、その谷側に石を積み上げて底から1m程度までは200~500キロの石を並べ、その上には人一人で持ち上げられる位の石を最大高さ2mの高さに積み上げていました。石積の幅は2m強で山側は人が歩ける様な通路状になっていました。石の積み方は、自然石を単純に積み上げたように見えますが、毎年8月には集落全体で「垣普請の日」が決められ整備、石積の積み直し行われその際は年長者から積み方の指導があつた様で積み方には工夫があったのではないかと考えます。

シシ垣のある場所は、山の斜面の傾斜が変わる場所でシシ垣より上は急斜面ですが、シシ垣より下は傾斜が緩く数段の水田が作られ、涸れ沢が数ヵ所あり昔は流れていた水を利用して稲作がおこなわれていたのには驚きました。(現在は耕作放棄されていますが)この水田はシシ垣から直角に東に伸びた石積みで囲われています。

シシ垣には数か所の切れ目があり「木戸」とよばれ、山側には内面に石が積まれた径約2mの穴が掘られ、私が見たものは土で埋まっていましたが深さも約2mあり「シシ壺」と呼ばれています。

今回私は高津気のシシ垣の長野川の北1kmを歩きましたが、さらに北に北1km、長野川の南は2km続き全体の延長は4kmですが、このような壮大なシシ垣が築かれたのは作物の獣害が深刻であったと思われますが、

 

シシ垣写真

 

シシ垣から垂直に分岐して田を囲む石垣

 

ヌタ木戸とシシ壺

  • 参考文献

   熊野列石研究会 昭和62年3月31日発行 

    熊野列石研調査報告書

   戎光祥出版株式会社 令和5年12月28日 発行

    歴史研究 通巻717号 

    高田 徹氏「城郭類似遺構」どこまでが城の遺構なのか

丈山城 新しく確認された伊賀の城

 

丈山城縄張図(国土地理院の電子地形図25000) 

 

伊賀街道が長野峠を西に下がったところの阿波地区は、東西5kmほどの小盆地のようなところですが10ヵ所以上の城館が今まで確認されていました、昨年の年末に伊賀中世城館調査会の調査で新たに確認された未知の城が今回の丈山城です。

阿波地区中心部の新大仏寺があるところへ、南の笠取山から下る谷の西側の尾根には中垣内城、重瀬城、重瀬氏館があるが、その東の尾根の先端(標高410m/比高140m)が丈山城です。

丈山城のある尾根は地形図には表れない谷が入り込み険しく、尾根の上もアップダウンがあり城の南側から回り込んで目指したが結構苦労した。

丈山城は約25×20m単郭で周囲を最大の幅5m×高さ2mの土塁が囲み、南西角は土塁が切れているので虎口かもただここに至るルートが分かりません。南側に堀切がありその西端が郭の西側から北を腰郭状に囲んでいるのであるいは空堀か?堀切の南に約15mの平坦地(郭か不明)がありその南端にも堀切となっている。

 

郭写真

南より

北西より

北東より

 

腰郭、空堀か?

 

堀切写真

南より

北より

 

北堀切写真

 

遠望写真

 

  • 参考文献

   伊賀中世城館調査会事務局  令和6年1月1日発行

    「古城雑記」調査会会報361号(会員配布)

 

仁位山城

 

仁位山城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)

仁位山城には昭和の終わりごろ日本城郭体系を持って登りましたが、当時は藪山で私自身の城郭に対する知識も乏しく何か珍しいものが在ると思いましたがよく見ず帰ってきました。

その後上月城周辺の陣城(目高の築地、大亀山城、大成山城、大平山城、円光寺砦 等)を歩いた結果、仁位山城もしっかり見る必要があると思いネットで色々調べると最近地元で整備がされて見やすくなっているようなので「近畿の城郭」を参考に歩いてきました。

仁位山城は東側に高倉山からの尾根が続いている以外の、麓を北から西、南にかけて佐用側が大きく蛇行する山(標高232.9m/比高150m)です。

郭と思われる部分は西、中央、東の三か所あり、西部は北に向かって張り出した尾根で堀切の両側に郭が2か所あり、周辺にも削平地があるようだが後世の改変があるようでよく分からない。

中央部は基本自然地形のようだが北と東に切岸があるように見え、中央と東部の間は東に下がる傾斜地で北に向かって尾根が張り出していて、明明確な切岸とその下に堀切が確認できる、この尾根は高倉山に続きます。

東部は北に低土塁、南は高い切岸に囲まれた郭でこの南斜面に仁位山城の特徴である竪堀列(畝堀)があります。この畝堀の存在が毛利の陣城の証明とされていますが、最近私は広島県の北、東部行きますがこのような斜面に竪堀を並べる例をあまり見ないように思いますが西部のほうにあるのでしょうか?このような竪堀列(畝堀)で毛利の関係する城で思い浮かぶのが「岡山県吉備中央町 勝山城」

毛利に関係があるか分かりませんが「宍粟市 篠の丸城 」ただ此処は南斜面の畝堀は城内整備の際に伐採した樹木を畝堀部に積まれて非常に見にくくなっています。あと「北九州市小倉区 長野城」くらいで私自身あまり例を知りません。広島県北、東部の城の竪堀(畝堀)は比高のない低丘陵の場合は、斜面全周を放射状に巻く形で、比高のある城では主要な登り口(守りの正面)の尾根に竪堀を並べる形が多いように思っています。津山市の医王山城の周辺の陣城でもそのようになっているように思っています。

 

東郭写真

南側の竪土塁

北側尾根の竪堀

北側尾根の土塁?

北側の切岸、土塁

東先端の郭

南東部の土塁

南の切岸

 

竪堀列(畝堀)部の写真

横堀

横堀端、張り出し部

横堀



南竪堀列(畝堀)写真

 

西尾根郭堀切写真

 

高倉山に続く尾根写真

 

遠望写真

 

  • 参考文献

   戎光祥出版株式会社 2016年3月1日発行

    城郭談話会編 図解 近畿の城郭 Ⅲ 

   戦乱の空間編集会 2019年7月 発行
    戦乱の空間第18号 高橋成計氏「播州上月城合戦と城郭」