大盛山城縄張図
大盛山城縄張図は高橋成計氏作図、氏の許可を得て使用しています無断での他への使用及び複製しないでください。
朝来市生野町市街北の古城山から東約500mの山頂(大盛山 標高605.5m/比高約230m)が今回の大盛山城です。
今回、高橋氏が確認された遺構は東西の切岸、南北の尾根筋を遮断する低土塁、南の土塁中央には虎口か?
土塁写真
切岸写真
- 参考文献
ありません
高津気シシ垣マップ 「くまの里山」発行
山城を歩くと城郭遺構か悩むものが少なからずあります。
地籍境界を示す境界土塁、耕作地跡やシシ垣等の石垣、畑や田やなどの削平地、尾根を横切る切通道、自然の地形変化等があったときはできるだけ麓の人家で聞くようしていますが、現在の私からすれば想像ができない程、山の奥まで人の生活の跡が残っています。
その中で、現在私はシシ垣に興味をもち前回は滋賀県の2例を歩きました。
昭和の終わりごろ、毎日新聞で「熊野山中に残る謎の石垣」の記事があり、当時は「古代文明の遺跡」「神武天皇の侵入を防ぐ防塁」などと週刊誌やテレビを賑わしたことが記憶にあり、シシ垣を調べる中で、高津気のシシ垣がそれの一部であることが分かり、現地で文化や遺産の保護活動をされている「くまの里山」を紹介してもらい行ってきました。
高津気集落は那智勝浦町の北東部の長野川の源流域にあり、シシ垣は集落の西約500mの南北に伸びた尾根の東斜面の標高210mの等高線に沿って築かれていました。
斜面に2~5m程度の平坦面を作り、その谷側に石を積み上げて底から1m程度までは200~500キロの石を並べ、その上には人一人で持ち上げられる位の石を最大高さ2mの高さに積み上げていました。石積の幅は2m強で山側は人が歩ける様な通路状になっていました。石の積み方は、自然石を単純に積み上げたように見えますが、毎年8月には集落全体で「垣普請の日」が決められ整備、石積の積み直し行われその際は年長者から積み方の指導があつた様で積み方には工夫があったのではないかと考えます。
シシ垣のある場所は、山の斜面の傾斜が変わる場所でシシ垣より上は急斜面ですが、シシ垣より下は傾斜が緩く数段の水田が作られ、涸れ沢が数ヵ所あり昔は流れていた水を利用して稲作がおこなわれていたのには驚きました。(現在は耕作放棄されていますが)この水田はシシ垣から直角に東に伸びた石積みで囲われています。
シシ垣には数か所の切れ目があり「木戸」とよばれ、山側には内面に石が積まれた径約2mの穴が掘られ、私が見たものは土で埋まっていましたが深さも約2mあり「シシ壺」と呼ばれています。
今回私は高津気のシシ垣の長野川の北1kmを歩きましたが、さらに北に北1km、長野川の南は2km続き全体の延長は4kmですが、このような壮大なシシ垣が築かれたのは作物の獣害が深刻であったと思われますが、
シシ垣写真
シシ垣から垂直に分岐して田を囲む石垣
ヌタ木戸とシシ壺
熊野列石研究会 昭和62年3月31日発行
熊野列石研調査報告書
戎光祥出版株式会社 令和5年12月28日 発行
歴史研究 通巻717号
高田 徹氏「城郭類似遺構」どこまでが城の遺構なのか
丈山城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)
伊賀街道が長野峠を西に下がったところの阿波地区は、東西5kmほどの小盆地のようなところですが10ヵ所以上の城館が今まで確認されていました、昨年の年末に伊賀中世城館調査会の調査で新たに確認された未知の城が今回の丈山城です。
阿波地区中心部の新大仏寺があるところへ、南の笠取山から下る谷の西側の尾根には中垣内城、重瀬城、重瀬氏館があるが、その東の尾根の先端(標高410m/比高140m)が丈山城です。
丈山城のある尾根は地形図には表れない谷が入り込み険しく、尾根の上もアップダウンがあり城の南側から回り込んで目指したが結構苦労した。
丈山城は約25×20m単郭で周囲を最大の幅5m×高さ2mの土塁が囲み、南西角は土塁が切れているので虎口かもただここに至るルートが分かりません。南側に堀切がありその西端が郭の西側から北を腰郭状に囲んでいるのであるいは空堀か?堀切の南に約15mの平坦地(郭か不明)がありその南端にも堀切となっている。
郭写真
南より
北西より
北東より
腰郭、空堀か?
堀切写真
南より
北より
北堀切写真
遠望写真
伊賀中世城館調査会事務局 令和6年1月1日発行
「古城雑記」調査会会報361号(会員配布)
仁位山城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)
仁位山城には昭和の終わりごろ日本城郭体系を持って登りましたが、当時は藪山で私自身の城郭に対する知識も乏しく何か珍しいものが在ると思いましたがよく見ず帰ってきました。
その後上月城周辺の陣城(目高の築地、大亀山城、大成山城、大平山城、円光寺砦 等)を歩いた結果、仁位山城もしっかり見る必要があると思いネットで色々調べると最近地元で整備がされて見やすくなっているようなので「近畿の城郭」を参考に歩いてきました。
仁位山城は東側に高倉山からの尾根が続いている以外の、麓を北から西、南にかけて佐用側が大きく蛇行する山(標高232.9m/比高150m)です。
郭と思われる部分は西、中央、東の三か所あり、西部は北に向かって張り出した尾根で堀切の両側に郭が2か所あり、周辺にも削平地があるようだが後世の改変があるようでよく分からない。
中央部は基本自然地形のようだが北と東に切岸があるように見え、中央と東部の間は東に下がる傾斜地で北に向かって尾根が張り出していて、明明確な切岸とその下に堀切が確認できる、この尾根は高倉山に続きます。
東部は北に低土塁、南は高い切岸に囲まれた郭でこの南斜面に仁位山城の特徴である竪堀列(畝堀)があります。この畝堀の存在が毛利の陣城の証明とされていますが、最近私は広島県の北、東部行きますがこのような斜面に竪堀を並べる例をあまり見ないように思いますが西部のほうにあるのでしょうか?このような竪堀列(畝堀)で毛利の関係する城で思い浮かぶのが「岡山県吉備中央町 勝山城」
毛利に関係があるか分かりませんが「宍粟市 篠の丸城 」ただ此処は南斜面の畝堀は城内整備の際に伐採した樹木を畝堀部に積まれて非常に見にくくなっています。あと「北九州市小倉区 長野城」くらいで私自身あまり例を知りません。広島県北、東部の城の竪堀(畝堀)は比高のない低丘陵の場合は、斜面全周を放射状に巻く形で、比高のある城では主要な登り口(守りの正面)の尾根に竪堀を並べる形が多いように思っています。津山市の医王山城の周辺の陣城でもそのようになっているように思っています。
東郭写真
南側の竪土塁
北側尾根の竪堀
北側尾根の土塁?
北側の切岸、土塁
東先端の郭
南東部の土塁
南の切岸
竪堀列(畝堀)部の写真
横堀
横堀端、張り出し部
横堀
南竪堀列(畝堀)写真
西尾根郭堀切写真
高倉山に続く尾根写真
遠望写真
戎光祥出版株式会社 2016年3月1日発行
城郭談話会編 図解 近畿の城郭 Ⅲ
北下手城縄張図(国土地理院の電子地形図25000)
数年前に京都府の城館調査が行われる情報に接し、居住地近くの木津市、精華町、宇治田原町の城跡を歩いたことがありました。
若い時(約20年以上前)に歩いた木津市の鹿背山城、木津城、蔦城以外に明確な城は無く、あと井手町の井出城は城と間違いないと私は考えたていた。
京都府・市町村共同 統合型地図情報システム[GIS]の遺跡地図を参考に歩いたが、明確に城と分かるものはなく、宇治田原町の脇神城が城かなと思う以外、宇治田原町では現状殆どの所は茶畑の跡ではないかと私は思いました。
そのような中で異様なのは、精華町の乾谷城で尾根上に5~10m強の意味不明の丸い穴(深さ2m強)が十数個あるだけで、城にかかわ削平地、土塁、堀切などなく、麓のお宅で聞くと穴は昔からあったとお話でいったい何なのでしょう?
最近、ブログ「弥勒の道プロジェット」さんが加茂町の縄手城、下程城、浦城、北下手城をあげておられるので、その中で遺跡地図に記載のない北下手城に行ってきました。
北下手集落の背後(北)の低丘陵(標高約175m/比高40m)が北下手城です。
ピーク部は西から北にかけて土塁のある郭で主郭と思われ、土塁の外側は二重の空堀で、空堀の外側に削平地がありますが郭かどうか不明。(後世の改変があるよう)
主郭の南に一段低く郭があり、東端に幅の広い土塁、その下に空堀がありその南端で西に直角に折れ郭の南側に延びています。
以上の様に北下手城は小さいながら、縄張り的にみるべきところがあり、形態的には南の奈良県の東山内の城と同じように伊賀地方の影響を受けたように私は感じました、
主郭土塁
主郭背後上空堀写真
主郭背後下空堀写真
西部
北部
東端部
南郭写真
南郭土塁写真
南郭東空堀写真
南郭南空堀写真
西端
遠望写真
ブログ「弥勒の道プロジェット」さんを参考にさせていただきました。
京都府・市町村共同 統合型地図情報システム[GIS] 遺跡地図
京都府中世城館跡調査報告書 第3冊 山城編Ⅰ
三田市の三田城(車瀬城)を取り囲むように約2キロ前後の距離で、今回の桑原城、立石城(ブログ2021年1月14日)宅原城(ブログ2018年3月18日)、道上城(ブログ2019年8月31日、消滅)、約1kmに横山城(消滅)、やや離れて釜屋城(消滅)、茶臼山城(現在公園化され遺構は疑問です)等あり、いずれも織田氏による三田攻めの陣城ではないかと若いころ歩きましが、ただ現在は必ずしもそうではないと思う様になっています。
JR三田駅の東、桑原集落の背後(北)の丘陵頂部(標高212.5m/比高約70m)が桑原城です。
山頂を2か所の土塁、空堀で三つの郭に分けいずれの郭も比較的よく削平され、中央部がやや高くなっています。
仕切りの土塁は、北のものは中央が南に向かって張り出しがあり何かの意味があるのでしょうか。
南のものは中央で土塁が食違いで開き、虎口のように見えます。
南の郭は一番広く、二段になっいて東に土塁の痕跡あり南西部に高い削り残しの土塁で、この土塁の南は堀切で南に続く尾根を遮断して、北端は一段低い郭で、若い時に麓の人家の裏から尾根を登り、途中石室の開いた古墳を見てこの郭に取り付いた記憶があり虎口に関連したものか。
北仕切り土塁、空堀写真
南仕切り土塁、空堀写真
虎口?
南郭の南西土塁写真
南端堀切写真
遠望写真
三田市史編さん委員会編 平成12年12月15日刊
三田市史 第三巻 古代・中世資料
百地丹波城・城山砦縄張図(国土地理院の電子地形図25000)
以前、龍口城としてブログを作成しましたが、当時は藪山でおまけに西の城山砦の中央に獣除けフェンスが設置され充分に遺構を確認できない状況でしたが、近年地元により整備がおこなわれ城域も見やすく、登山道も歩きやすく城の近くに駐車場も作っていただき楽に歩けました。
名張市竜口集落の背後(北)の尾根のピーク2か所、百地丹波城(標高417.1m/比高約130m)と西の城山砦(標高413m/)があります。
百地丹波城は頂上部のお社のある削平地が、主郭と思われ西側に土塁と思われる高まりがあります。東から南にかけて削平地がありその東から南の淵に土塁が見られ空堀の様に見えます。西側にも削平が不十分な郭があり、その西端に土塁がありその西は堀切となっています。
城山砦は、削平の良い単郭で南以外に土塁がのこります。
百地丹波城写真
城山砦写真
遠景写真
伊賀中世城館調査会 平成20年6月1日 発行
古城雑記 調査日誌第249号